グレーテルはまだ森の中




第九話 晩餐



 男の体はその後何日も、自由になりませんでした。
 けれど、昼間は意識だけははっきりしている様子で、何も手当ての手順のわからないグレゴリーに、指示を出したり、薬の使い方を口で説明したりしていました。
 グレゴリーはと言いますと、今までいくら教えても全く覚えなかった家事を中心に、男の教えることを急激に吸収していきました。
「その緑色の軟膏が、傷にはよく効くんだ」
 グレゴリーは、男の横になっているベットの足元に腰掛け、服を脱いでいました。
 足元には、汚れた包帯が、不要物の様に落とされています。
 露になった白く華奢な肩に、なんとも生々しい傷跡が残っていました。
「…前もそこを噛んだ気がする」
「そうだよ。貴方は僕の肩の肉がお好きと見える」
 グレゴリーの肩は、引きちぎられた肉が曖昧に再生したお陰で、お世辞にも美しいと言えるものではなくなっていました。しかも、軟膏の毒々しい色が、肉を作る過程で練りこまれたらしく、その部分だけが、腐ったような緑色に変色しています。
「すまなかったと思っている。…前は綺麗になったのにな」
 男は心底情けない表情をして、その緑色の皮膚をじっと凝視しています。
 そんな男の弱気な態度に、グレゴリーは何とも胸が痛くなるのです。
「綺麗な肌…お前の自慢だったんだろ?」
 グレゴリーは、今まで一緒に暮らしてきて、一度もそんな風に相手に言ったことがありませんでした。
 勿論、心の内で自分の綺麗な容姿や体に自信を持っていましたから、男のその発言には驚かされずにはいられません。
 まるで本当に魔法使いじゃないか…グレゴリーは何も言わずに相手の顔をじっと見つめます。
「どうやら魔法では、治せないみたいなんだ」
 男がそう言って、弱々しく苦笑するのに、グレゴリーは胸を掻き毟りたいもどかしさにかられます。
 それは魔法使いの言う通り、彼のせいでしかないからなのでした。
「もし責任をとれるなら…俺にできることがあるなら…何でも言ってくれ」
 男の真紅の目は、今までのどれよりも真剣で、切実で、どこか翳っていました。
 グレゴリーは、どうしてもその瞳を直視できなくなり、新しい包帯を丁寧に巻きなおすフリをして、視線を逸らしました。
「何でもなんて簡単に言うの、貴方らしくないんじゃない?」
 相手の瞳を見ることができないまま、服を着ると、ベットから腰を上げました。
「そろそろ夕食作らなくちゃね。日が暮れたら困るし」
 都合よく空になっていた木バケツを引っつかみ、グレゴリーはまだ太陽の高い外へ出ようと、扉を開けました。
「水汲んでくる…」
 扉を開けたグレゴリーは、一瞬躊躇したようにそこに立ち止まり、思い切って男の方を向きました。
 それは、早く相手の顔を見なければ、もう簡単に、目を見て離せなくなってしまうような気がしたからでした。
 魔法使いは、まるでただの男のように、心細そうな顔で、こちらを見つめていました。
「…本当に何でもしてくれるなら、僕だけのものになってくれる?」
 グレゴリーは、夕食の好みでも伺うような気軽さで、訊いたつもりでしたが、口から出た言葉は、何とも滑稽なくらい早口で不自然なそれでした。
「なんてね」
 相手が何か言う前に、急いでそう付け足すと、うまく笑って誤魔化すこともできないまま、グレゴリーは外へ出ました。
 思ったよりも大きな音をたてて閉まってしまった扉を背に、グレゴリーは走り出します。 
 体中の熱と言う熱が、全て顔面へと集まってくるような感覚がグレゴリーを襲います。
風を切れば、それも少しは収まるのですが、何とも早い心臓の音だけは、走れば走るほど、その速度を上げるのでした。

「グレーテル!」
 水場まで走りきった時、背後から聞き覚えのある声で名を呼ばれ、グレゴリーは体を強張らせました。
 調度水を汲もうと川を覗き込んだ、その時でした。
 グレゴリーは自分の耳を疑います。
「…ヘンゼル…」
 それは、館を抜け出し、森で狼と出会った運命の夜に、手放したはずの幼馴染の声でした。
 グレゴリーは、背筋にぞくりと冷たい悪寒が走るのを感じながら、恐る恐る声のした方を振り返りました。
 果たしてそこに立っていたのは、予想通りの赤毛の青年でした。
そしてその手には、どんよりと重たげな、汚れた猟銃がしっかりと握られていました。
「ヘンゼル…!お前まさかっ!」
 グレゴリーは、一瞬にして血液が頭へと昇っていく感覚を体験しました。
 その澄んだ緑色の瞳は、怒りで一層美しく輝いています。
 口から溢れ出る怒声を抑えようともせずに、グレゴリーはいとこのヘンゼルへと詰め寄りました。
「この銃でっ!撃ったのかっ!狼をっ!」
 急に接近したいグレゴリーの美しい顔に、ヘンゼルは顔を真っ赤に、目を白黒させて動転してしまいました。
 グレゴリーは、そんなヘンゼルなどお構い無しに、その胸倉を乱暴に掴むと、暫く見ないうちにすっかりこけてみすぼらしくなった顔を、拳で殴り飛ばしました。
「なっ!何するんだい!グレーテル!」
その場に尻餅をついたヘンゼルは、美青年の面影など露もない無様な格好で、グレーテルを見上げました。
「黙れ外道!お前のせいで僕の大事な狼は死に掛けたんだ!最悪の人間だ!今すぐ殺されたって文句も言えないところだ!」
 グレゴリーの怒鳴り声は、喉から血が出てしまうのではと思うほど悲痛で怒りに満ちたものでした。そのあまりの剣幕に、辺りの樹から、数羽の鳥が飛び立ちます。
「待ってくれ!確かに僕は狼を撃った!でもあれはグレーテルの為だったんだ!」
「言い訳なんか聞きたくない!お前の声すら気に障る!特にその呼び方が気持ち悪いんだよっ!」
 鬼か悪魔のように釣りあがったその目に、普段の陶器の人形のような美しさはありませんでした。そこにあるのは、人間の激情の美しさでした。感情を吐露する人間とは、こんなにも醜悪で愛らしいものなのでしょうか。
「だって!だってあの夜きみが急にいなくなってしまうから!僕は心配で心配で…何とか館に帰り着いた後も、すぐにこの猟銃を持って森へ戻ってきたんだ!何日も森をさ迷って、コケやミミズを食べて生きながら、それでも僕はきみを探し続けた!そうしてやっときみを見つけたと思ったら、きみは…きみは!見知らぬ僕以外の男と二人、楽しげに暮らしているじゃないか!僕は…僕は怒った!悲しかった!僕が泥を食い、自分の糞尿すら糧にきみを探し回っていた間に、きみは僕じゃない男と…男と!笑っていた!僕には向けてくれないような笑顔で!」
 一気にまくし立てるヘンゼルの鬼気迫る様子に、怒りで我を忘れかけていたグレゴリーは、急速に冷静になっていきました。
 そして、頭に上っていた熱が下へ下れば下るほどに、今目の前にいる幼馴染の、醜さと恐ろしさに、鳥肌が立ちました。
「ぼ、僕は…男を殺そうと思った…そうして奴が一人になるのを待った!チャンスはすぐに来た。男は夕暮れと共に、一人で森へ向った!そして僕は、そこで悪魔を見たんだ!男が、夕闇の中で、狼になったんだ!いや、魔犬が人間の姿に化けていたんだ!グレーテル!きみは気付いていなかったのだろう?奴の魔法に絡め取られ、甘美な誘惑に堕ちていたんだ…あの悪魔は最後にはきみを食べるつもりなんだ!それにも拘らずきみは…きみはあいつの手当てなんかをして…!」
 そう叫ぶ間ヘンゼルは、一度も瞬きをしませんでした。充血し、血管の浮かんだ目玉が、一層グレゴリーを不快にさせます。
 グレゴリーは無意識のうちに、きつく唇を噛み締めていました。
「僕はきみを助けようとしたんだ!でもきみは優しいから、死に掛けのあいつを放っておくことができなかったんだ…っ!」
 狂ってる!グレゴリーは心の中で何度も叫びましたが、どうしてもその台詞を、口に出して相手にぶつけることができませんでした。
 ヘンゼルは勿論自分が正しいと思って話しているのですし、グレゴリーだって自分が正しいと思っています。この思い込みにどれほどの差があるのか、どちらが真実なのか。ヘンゼルのあまりの気迫に、グレゴリーはわからなくなりかけていました。
「でも…あぁごめんよグレーテル。僕の銃にもう弾はないんだ…だから…どうか、これを」
 そう言って、足元のヘンゼルがグレゴリーに差し出したのは、小さな小瓶でした。中には、白い少量の粉が入っていて、見た目はまるで砂糖か何かのようです。
「とても強力な毒薬のはずだよ」
 試したことはないけど、とヘンゼルは小さくつけたし、伸ばそうともしないその小さな白い手を無理やり取り、ぎゅっと小瓶を握らせました。
「でも相手はあの狼だから、きっとこの強力な毒を飲ませても、仮死状態にするのがやっとだろう。だからグレゴリー、相手が仮死状態になったらその隙に、逃げておいで」
 じっと下から自分を見つめるその狂気の瞳に、グレゴリーは思わずその小瓶を受け取ってしまいました。
 いえ、そのせいばかりではなかったのでしょう。
 グレゴリーは、狼の変化が恐ろしかったのです。
 あの美しく孤高だった闇の獣が、弱り果て、自分のものに成り下がるのを恐れていたのです。
 そしてグレゴリーは、自分のものになってしまった玩具に、自分自身興味が持てないだろうことを一番不安に思っていました。
 この掌に収まる少量の毒薬で、その全てから逃げ出すことができるのなら―――
 それは、信じられないほど甘い誘惑でした。
「もし道がわからなかったら、腐臭のする方へいけばいいよ。腐った鴉の死体が、きっと道標になるはずだから」
 どこかで前にも聞いたようなその台詞に、グレゴリーは眉を寄せます。まるで小魚の骨が喉に引っかかっているような感覚でした。
 しかし、すぐにその正体に思い当たります。
「………いい…」
「え?」
「お前の助けなんていらないっ!いいからお前は二度と僕の目の前に姿を現すな!今度その面見かけたら、その時こそ命はないと思え!」
 馴れ馴れしげにグレゴリーの足にすがり付いてきていたヘンゼルを、思い切り蹴飛ばして、グレゴリーは怒鳴りました。
 それは、ヘンゼルに向けられた怒りではありましたが、同時に、自分の中の闇を振り払うための覇気でもありました。
 けれど、声は響くことなく、あっけないほどの素早さで空気中に散っていくのです。
「え?でも…」
「五月蝿い!ガタガタ言うな!気持ち悪いんだよお前!さっさと失せろ!」
 突然の事態に追いつけていないヘンゼルは、しどろもどろと何かを言おうとしましたが、グレゴリーの強力な蹴りをもう二発ほど食らうと、前のめりながら森の中へと逃げてきました。
 何度も何度も振り返りこちらの様子を伺うその卑屈な格好に、グレゴリーは嫌悪感がこみ上げるのを無視できませんでした。
「狼なんかに気を許しちゃあいけないよ!執着しちゃあいけないよ!どうせきみはあの狼男だって、玩具だと思ってるんだから、危ない玩具で遊んじゃいけないよ!」
 もう姿がぼやけるほど遠くに走り去ったヘンゼルの、捨て台詞のような叫びが、微かに耳に届き、いつまでも鼓膜を震わせました。
 グレゴリーは認めたくはなくとも、さすがに小さい頃から一緒だっただけのことはあります。ヘンゼルはやはりグレゴリーを、いくらか理解しているようでした。
 グレゴリーは、きつく唇を噛みます。
 どんなにヘンゼルを罵倒し、暴力を振るって見せても、グレゴリーの中のどす黒い感情が、消え去ることはありませんでした。
 ヘンゼルに、投げ返しでもすればよかったのに、グレゴリーの冷たい掌には、まだしっかりと魔法の小瓶が握られていました。

 太陽は、すっかり中天を通り越し、あと数時間のうちに訪れる夕暮れを、予感させる黄昏色で輝いていました。
 いつの間に作ったのか、部屋の壁に設えた暖炉には火が灯り、その踊る炎の中には、錆びかけた鍋が掛けられていました。
「…いい匂いだな」
 男の、何でもないような一言に、グレゴリーは思わず笑ってしまいました。
「そう?ただのスープだよ。何だかんだ言っても、そんな物しかまだ作れないから」
「いや、何にもできなかったんだ。進歩だろ」
 グレゴリーは、男に背中を向けて料理をしていましたが、その視線が、じっと自分に注がれていることはわかりました。
「だって言ったじゃないか。食事の支度は僕がする、って」
 グレゴリーのズボンのポケットには、先程ヘンゼルから渡された毒薬の小瓶が入っていました。グレゴリーは、それを徐に取り出すと、自分を見つめ続ける相手の目から隠すでもなく、手に持ちました。
 一瞬の沈黙の間に、グツグツと言う鍋が煮える音が部屋を取り巻きました。それは、幸せや、平穏の音でした。
「ねぇ、訊いてもいい?」
「…何だ?」
「僕の血肉って、どんな風に不味かった?」
グレゴリーは、振り向かずに、相手に背中を向けたまま、語り掛けました。
「…もうこれ以上食べたら、自分の命が危ういなぁと思うような不味さ」
 男の口調は、いつになく軽いものでした。下手糞で珍しい、冗談でした。
「…僕って最悪だね」
「今更気付いたのか」
 グレゴリーは、どこか安堵したような表情で、強く、薬瓶を握り締めました。
「でも…本当に、お前のこと食べてしまわなくてよかったと思ってる」
 ピクリと、微かにグレゴリーの肩が強張りました。
 グレゴリーが息を呑む音が、男までは伝わりません。
「あの時思ったんだ。何故だかお前を食い殺してしまったら、俺は死ぬほど後悔するって」
 男のどこか照れるような言葉に、グレゴリーは何も言い返せません。
 瓶を握り締める掌が、その力のあまり、真っ白くなっていました。冷や汗が、額をじとっと濡らすのを感じます。首筋が、何もないはずなのに、無性にこそばゆい気がしました。
「不味すぎて腹でも壊すから?」
「…いや、本当は嘘なんだ。人肉が、美味しくないわけないだろう」
 グレゴリーはきつく目を瞑ります。背後の男が、今一体どんな顔で恥らって、そんな風な台詞を吐いているのか、考えただけで、悲しくなりました。
 ゆっくりと、握り締めていたその手を開いて、硬く閉められた瓶の蓋を開きます。
「……莫迦だね…」
 ひどく弱々しくなったその声を、驚きと取るか失望と取るか、はたまた全く違った何かと捉えるるかは、聞く者次第なのでしょう。
 グレゴリーは、小瓶の中の白い粉を、躊躇いもせずに、目の前の煮える鍋の中へ入れました。
 背後のベットの上にいる男に、あからさまに見えるようにした行動すら、相手は何の疑問も持たないのか、声をかけません。
「だから…俺は…」
 木製の匙でかき回すと、毒の粉は、スープの中に溶けて、消えていきました。
 お願いだから、その先を言わないで欲しい…グレゴリーはそう胸の内で強く願いました。
何も信仰するものを持たないグレゴリーは、ただひたすらに、何か大きな存在めがけて、叫ぶように祈り続けました。
 ごめんなさいごめんなさいと、何度も声にすることなく口を動かします。
 孤独な森の狼を欲したことをグレゴリーは謝りました。
 自分が、まだ受け止められない『愛』と言うひどく大きな存在に、何度も何度も謝りました。
 グレゴリーは、愛されることを望んでいませんでした。愛することを、夢見ていました。
 まだ、たどり着けない、と言う不思議な感覚が、心を支配していました。
 無力な自分に涙したのに、自分はまたその生ぬるい誰かに守ってもらっている産湯の中に戻るのか。
 グレゴリーは、大きく唾を飲み込む一瞬に、たくさんのことを考えました。
 キケンナオモチャハコワシテシマエ
 一瞬間の長さすら、グレゴリーにとっては果てしなく感じられました。
 祈りは届きません。
 とうとう、男の口が開かれました。
「お前だけのものになりたい。認めなかっただけで、きっとあの夜から、俺はお前に惹かれていたんだ」
 カシャン
 グレゴリーの中で、まるで華奢な器から、何かが零れ落ちるような音がしました。しかしそれは、勿論男には聞こえない音でした。
 グレゴリーは顔色一つ変えずに、そばにあったボロボロの食器に、鍋の中のスープを取り分けます。
「……ありがとう」
 その言葉は、旅立ちの挨拶に、ひどく似ていました。
「さぁ…御飯にしよう」
 グレゴリーは満面の笑みで振り返ると、魔法のスープを、男の方へ差し出しました。
 鴉を殺したあの黒パンにも、同じ毒が入れられていたのだろうか―――
 そんなことをフと考えながら。




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