グレーテルはまだ森の中




第八話 無力感



 ズルズルズルズルと、重たいものを引きずる音が、ただ静かな森の中で不自然でした。
 グレゴリーは、自分が息を荒げていることにも気付いていません。たまに、額から流れてくる汗で視界が滲むのですが、それを拭き取ることすら、今のグレゴリーにはできないようでした。
 狼は、ぼんやりとした意識の中で、獣の本能と、人間としての理性の混ざる湖に漂っています。
 自分自身の体が、ひどく重たくて、全く動くことのできないことだけは、はっきりとわかっていました。
 グレゴリーは、自分よりも大きいのではないだろうかと言うほどの狼を両手で抱え、引きずり、真っ暗な森を歩いていました。
 グレゴリーが湿っぽいベットの上で、銃声に飛び起き、重たい石をどけてなんとか地上へ出た時には、辺りはすっかり真っ暗でした。
 それから、風に乗って微かに漂う血の生臭い香を追ってみると、そこには、見覚えのある大きな黒い狼が、横たわっていたのでした。
 その脇腹から、真っ赤な血を、次から次へと溢れ出させて。
 グレゴリーは一瞬、此処は鏡のなかだろうかと疑いました。
 狼自身の瞳の中に、狼が映った、そんな光景のような気がしたからです。
 しかし、グレゴリーは自分を叱咤するように激しく頭を振りました。狼の体は、ゆっくり大きく上下に動いているのです。
 とにかくまずは、手当てをしなければなりません。
 
 そして今、グレゴリーには、やっと廃虚の影が見えてきたのです。
 それは、夜の闇の中をぼんやりと月に照らし出され、昼間よりも一層不気味なものに成り下がっていました。
 自分の手が、いつの間にか、狼の血に染まっています。
 それが夜風に乾燥して、なんとも気持ちの悪い感覚が、腕の神経を昇るのです。
 グレゴリーは、狼を撃った存在を、影すら捕らえていませんでした。
 気付いたときには目の前に、死にかけの狼が落ちていたのです。
 そして、自分はその血に両手を染め上げているのです。
 狼を、殺そうとしたのは、誰だ―――
 どんなに目を背けても、月を仰いでも、最悪の答えが、頭の中で走り始めていました。
 それは、違うだろう、と言うなんとも甘美な逃げ道に、グレゴリーは縋らずにいられません。
 だんだんと、廃墟が近づいてきます。
 グレゴリーの腕は、狼の重さに、感覚を麻痺させていました。
 早くその重さから開放されたいと言う不謹慎な願いと、狼を一刻も早く助けたいと言う切実な気持ちが、グレゴリーの足を速めます。
 しかし、近づけば近づくほどその廃墟は、見知らぬ恐ろしい場所のように見えるのでした。

 体当たりのように古めかしい扉を押し開き、グレゴリーと、その腕の中の静かな狼は、見覚えのある部屋の中へなだれ込みます。
 自分たちの来た道が、血と泥で汚れていることなどお構い無しに。
 グレゴリーは最後の力を振り絞るようにして、狼を部屋の中央まで運ぶと、どこか麻痺したように軽やかな足取りで、開けっ放しの扉を閉めに行きました。
「…手当てって…何すれば…」
 なんとか小屋まで運んでみたところで、箱入り少年グレゴリーは、重傷の狼の手当てなど、わかるはずもありませんでした。
 それでも何かはしなければならないと、とにかくグレゴリーは、部屋の隅から水を持ってきました。
「…どうしよう…本当にどうしよう」
 まずは傷口を洗うのだろうか。グレゴリーは取り合えずバケツの中の水を両手で救い、横たわる狼の脇腹にそれをかけました。
 ビクリ
 狼の体が小さく跳ねます。グレゴリーはなんだか恐ろしくなって、思わず手を引っ込めてしまいました。
 しかし狼は、微かに動いた後は、またすぐ大きくゆっくりとした肺の動き以外、見せなくなってしまいました。
 グレゴリーは、またもう一度、両手で水を傷口にかけます。今度は先程よりも心なしか慎重な手つきで。
 しかし、狼に大きな変化はありませんでした。
 ピチャピチャと部屋中に水音を響かせながら、グレゴリーはただその血の流れ続ける傷跡を、水で濯ぐのです。
 勿論血の流れは、最初よりはずっと少ないものになってはいるのですが、グレゴリーの仕業も手伝って、なかなか完全に止まることはないのでした。
「…やめて…どうして…お願い…」
 小さな弱々しい台詞だけが、ポロリポロリとグレゴリーの唇から零れます。
 他にどうしたらいいかもわからず、ただただ手を真っ赤にテラテラさせて、傷口を洗うグレゴリーの姿は、どこから見ても滑稽でした。
 グレゴリーは、自分の情けなさに、涙が出そうになるのを必死で堪えます。
 けれど部屋中に響く何だか卑猥で、下品な水音が、真っ直ぐに傷口だけを凝視するグレゴリーの目頭を熱くするのです。
 口の中に、じわっと、塩辛いものが広がっていきます。
 ほんの微かではありますが、真っ赤な指先が、震えていました。
「どうして…どうして…」
 グレゴリーは、己の無力さに、涙を流しました。
 いっそ気持ち悪いほど暖かなその涙は、すっかり夜風に冷えたグレゴリーの頬を、つぅっと滑り落ちるのでした。
 押さえきれない嗚咽が、世界から切り取られたその部屋の中で、憎らしい水音をかき消していきました。
「…お願いっ…」
 決められた旋律を弾くように、傷口をなぞっていた無意味な指が、不意に硬いものに触れました。
 それは、骨か、銃弾か、グレゴリーに判断できませんでした。
 溢れ出てしまった涙にぼやける視界では、何が何だか少しも見えてきません。
 それでも、確かにその指に、何か硬いものが触れました。
 グレゴリーは息を呑みます。
 嗚咽が、一瞬にして、止まるのがわかります。
 グチャリ
 続いて部屋中を満たしたのは、肉を握りつぶすような、不快な音でした。
 その瞬間、虚ろに細められていた狼の真紅の双眸が、大きく見開かれました。
「キャウンッ!」 
 まるで子犬が尻尾を踏み潰されたときのような、可愛らしくも胸を掻き毟る高音が、グレゴリーの耳に届きます。
 そして、今までまるで一定の動きをする玩具のようだった狼が、激しく暴れ出したのです。
 それはそれは力強い動きでした。
 死に掛けているなどと、誰も考えないほどのものでした。
 グレゴリーはまだ少年でしたし、歳の割にも華奢な体格でしたから、その勢いに吹飛ばされても可笑しくはありませんでした。
 しかし、まさにそれは奇跡のような執念で、グレゴリーは狼にしがみ付いていたのです。
「っ!お願いだから…っ!」
 狼は暴れながら、渾身の力でもってグレゴリーの肩口に噛み付きます。しかし、グレゴリーはそれに歯を食いしばって耐えるのです。そしてこれを幸いとばかりに、肩口に噛み付いたまま大きな動きをとることができなくなった狼を、細い左腕で強く抱きしめるのでした。
 先程から指に触れていた硬い物質を、グレゴリーが狼の体から無理矢理抉り出すのと、狼が、その牙でグレゴリーの肩口を噛み千切るのは、同時でした。
「キャウン!」
 再度狼の口から甲高い悲鳴が叫ばれたとき、グレゴリーは素早く身を捩り、後ろへ逃げました。
 狼の鮮やかな血液で真っ赤に染まったその右手には、同じく血で汚れた銀色の銃弾が、強く強く握られていました。
 狼は、大きく一声遠吠えすると、バタンと小屋の床を壊すほどの勢いで、その場に倒れこみました。
 部屋の中は、先程までの騒ぎが嘘のように、すっかり静まり返りました。
 ただグレゴリーの荒い息遣いが、何やら不規則でありました。
「お願い…だから…」
 グレゴリーは、途切れ途切れに呟きます。その声はひどく小さいもので、呼吸音に取り込まれてしまいそうなほどでした。
 もう、そんなにも時間が経っていたと言うのでしょうか。
 窓から入ってくる宵闇が、心のなしか薄くなっているようでした。
 小さな部屋の中に充満する生臭さの他に、グレゴリーの鼻腔をくすぐるものがあります。それは、夜明けの臭いでした。
 結構な肉を持っていかれた肩口は、グロテスクで、二目と見れる物ではありません。しかもそこからは、グレゴリーの生命を全て押し流すような勢いで、ドクドクと、血が流れ続けるのです。
 グレゴリーは、だんだんと、それらの匂いが遠いものになっていくのを感じました。
 自分の呼吸音すら、耳に届きません。
 いつの間にか、辺りに霧のようなものが立ちこめて見えます。
 それは、本当に霧なのか、それともグレゴリーの虚ろな視界の靄であるのか、判断できません。
 ただ真っ暗だった世界は、いつの間にか、白み始めていました。
 夜明けが、近づいていたのです。
 斜めに揺れる視界の中心を占めていた、黒い獣が、その青白さの中で浮き立って見えました。
 ぼんやりと皮膜に覆われたような狼は、徐々に徐々に、その輪郭を曖昧なものにしていきます。
 それは、魔法としか言えない光景でした。
 先程までくたびれた獣の横たわっていた場所に、黒い髪の青年が、脇腹を真っ赤に染めて倒れているのです。
「…ぁ…」
 グレゴリーの口から、弱々しく、けれど確実な声が零れました。
 グレゴリーは、這うようにして、その男の傍へと近寄りました。
 男の瞳が、薄っすらと開かれ、その隙間から、すっかり見慣れた鮮血の赤が覗きます。
 その残酷な色が、ぼんやりと、覗き込むグレゴリーの顔を捉えました。
「…ごめんなさい…どうしたらいいかわからなくて…」
 グレゴリーの声は、か細く、そして震えていました。
 そんな声ですから、男の耳に届いているのかも、定かではありません。
「本当に…何もできなくて…」
 グレゴリーは、手と言わず顔と言わず、全身が血で汚れていました。
 真っ白な陶器のようだったその頬に、誰のものとも知れないどす黒い血液が、べっとりと張り付いたままでした。
 その渇いた血の跡を、もう一度濡らすものがありました。
 それは何でしょう。
 血でしょうか。
 瞳から流れ落ちたのは、血でしょうか。
「ごめんなさい」
 透明な、血など、どこから流れるのでしょうか。
「ごめんなさい」
 それは、涙でした。
 グレゴリーが、今まで流した涙より、温かく、冷たく、綺麗で、醜い、涙でした。
 いつでも美しく取り澄まされていたその顔が、くしゃりと猿のように歪みます。
 それは、心から思いっきり笑ったときのような、そんな歪み方でした。
「ごめんなさい」
 大粒の雫が、男の頬へとボトボトと音を立てて落ちていきます。
 言葉を搾り出すグレゴリーの喉が、一生懸命に、上下しました。
「…お願いだから…」
 ぐったりと投げ出された男の指先が、ピクリと小さく動きました。けれどグレゴリーには見えません。
 流しきれない涙を飲み込み、その塩辛さに眩暈しながら、グレゴリーは男に縋るのです。
「…死なないでっ…」
 細められていた男の瞳が、優しく見開かれていくのを、グレゴリーはくぐもった視界の中で捉えました。
 男がゆっくりと、時間をかけて、腕を伸ばしました。
 その青白い掌は、グレゴリーの汚れた頬をそっと包み込みます。
 泣きじゃくるグレゴリーの肩の傷は、男のそれよりもずっと醜く、生々しいままでした。
「…本当は…」
 男のカサカサの唇から出た声は、そのまま乾いたものでしたが、静かな部屋の中で、それははっきりとグレゴリーの耳まで届きました。
「お前が起きてくるまでに、作ろうと思っていたんだ。テーブル」









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