グレーテルはまだ森の中




第十話 旅立ち



 ザッザッザッザクザッザッ
夕暮れ、桃色に染まる森を、グレゴリーは歩いていました。息はまだ上がっていませんでした。
 後ろを振り返っても、そこには大切だったはずの廃材のお菓子の家はもう見えません。
 段々と夜の闇に包まれる遠くの小屋を、グレゴリーは、頭の中で思い浮かべます。
 グレゴリーは、今でもつい先程のできごとが信じられずにいました。
 その小屋のベットには、癒えかけの傷に包帯を巻いた黒髪の男が、眠るように、死んでいるでしょう。
 これから冬が来ます。仮初めの死では、肉はなかなか腐らないかもしれません。
 その綺麗な死体を作ったのは、他でもないグレゴリー自身です。
 男は、毒入りスープを飲むその瞬間ですら、グレゴリーを疑うことなく、まるで幼児のように、無垢な信頼を置いていました。まるで、グレゴリーが母親ですらあるかのように。
 グレゴリーには、そんな男が恐ろしかったのです。
 恐ろしかったから、殺してしまったのです。
 けれどグレゴリーに、その実感は微塵もありませんでした。グレゴリーはただ調味料でも混ぜるかのように毒を入れただけだったのですから、まるで手の中には生々しい感触など残っていないのです。そのあまりのあっけなさは、自分の凶行がまるで夢か幻だったのではないかと思えるほどでした。
「…本当に、信じられないな」
 自分が。と、口には出さないうちにそう付けたし、グレゴリーは空を見上げました。
 グレゴリーの罪を唯一目撃していたはずの太陽は、見て見ぬフリをするかのように、暗い木々の隙間に落ちていきます。
 グレゴリーは、小さかった頃を思い出していました。
 それは、グレゴリーがまだ十にならない頃のことでした。
 その頃のグレゴリーのお気に入りの玩具は、自分と同じ金髪の、綺麗なお人形でした。
 グレゴリーはそれを大層大事にしていて、いつも抱えて一緒にいました。
 グレゴリーにとってそのお人形は、動いて喋るいとこのヘンゼルなんかより、鬱陶しくもなく、自分の思い通りになる、素晴らしい玩具でした。だから小さなグレゴリーは、ヘンゼルを一向に構うことなく、ただただお人形との毎日を楽しんでいたのです。
 しかし、当時からグレゴリーのことが大好きだったヘンゼルは、そんな事態が気に入りません。
 ある日、グレゴリーがお昼寝しているところを狙って、その金髪の人形を、バラバラに解体してしまったのです。
 グレゴリーが目を覚ましたときには、綺麗だったお人形の手足と胴頭は、それぞれバラバラにされて、ベットの下に無残に投げ出せれていました。
「グレーテルが、寝ぼけて壊しているのを見たよ」
 それが、当時ヘンゼルの言った台詞でした。
 それを聞いたグレゴリーは、泣くでも怒るでも疑うもなく、気味悪そうにその人形だったものたちを見て
「…早く片付けて」
と言っただけでした。
 そうして遊び相手のいなくなったグレゴリーは、また仕方なくヘンゼルと遊ぶことになりました。
 グレゴリーは、この話を母親から聞いたとき、何の感想も持ちませんでした。
 しかし今、狼をこの手で壊したグレゴリーは、その話を思い出したのです。
 自分は、あの頃と同じように、玩具を壊しただけなのに、何故今こんなにも胸が苦しいのか。
 まだ、グレゴリーにはわかりません。
 それに、何か名前を与えることで溢れ出すであろう大きな感情が、恐ろしかったのです。
 グレゴリーは無意識に、胸の辺りを強く掻き毟っていました。
 足取りは、歩くにつれて重くなります。
 それでも、グレゴリーは森の中を進み続けます。
 目を瞑るたびに、目蓋の裏には、眠る死体が浮かびました。
 けれでもグレゴリーは、走って小屋に引き返すことはしません。
 それは、今戻ったところで、まだ自分は無力であることを知っていたからです。
「…これは…」
 一体、自分はどんな道をどんな風に歩き回ったのか、グレゴリーは全く覚えていませんでした。ただ、気付いたら、鼻をつく腐臭が、随分と濃いものになっていました。
 宵闇の近づく薄暗い森の中に目を凝らすと、そんなに離れていないところに、鴉が寝そべっていました。
 その鴉は、黒い羽をおもむろに脱ぎ捨てて、同じ色の瞳をぼとりと落とし、腐った肉の隙間からあばら骨を見せて、眠っていました。
『アンタひとおおかみを殺したネ?』
 腐りかけた鴉が嘴を開きました。
 グレゴリーはもう何も驚く必要がないかのような冷めた眼で、その鴉を見据えていました。
『ひとおおかみはアンタに惚れ込んでいたのにサ!アンタはいいだけ思わせぶりな態度をしておいて、最後に殺っちゃうんだもんヨ!なんて可哀想なんダロウ!アイツはずっとこの森で、ヒトリで孤独で、寂しかったのに!そのココロの隙間に付け込んで、殺しちゃうんだもんナァ!』
 グレゴリーは返事もしません。
 夜の闇だけが、腐った鴉の喋る間にも、濃密になっていくのでした。
『アンタはいつもそうなんだ。動かナイ玩具とか、喋らナイお人形とか!一方的に愛せるものを求めてるんダロウ?アンタは今までいいだけ周りから愛されていたカラ、もう愛されるのが鬱陶しくてたまらないンダ!』
 鴉がカアカアと、耳障りな高音で笑いました。それは、硝子を爪で引っかくような、人を不快にさせる笑い声でした。
「お前五月蝿いよ!」
『アンタだってひとおおかみは他の奴ラとは違うってわかってたクセに!ひとおおかみまでお前を愛した奴ラと一緒になるのが怖くて、殺しちゃうんだもんナァ!怖イ怖イ!結局アンタ子ドモなんだヨ!逃げるコトしかできないじゃないカ!』
「…っ!何でお前にそんなことわかるんだよ!」
 グレゴリーがイライラしたように、近くにあった樹を殴りました。ハラハラと数枚の落ち葉が舞い落ちてきます。グレゴリーの手は、樹の幹で、少し切れてしまいました。
『そりゃあわかるサ!腐ってるからネ!アンタだって腐ってるから、聞こえるんダロウ?その左肩とか…いや、性根カナ?』
 カアカアカアカアと、たくさんの鴉が笑う声が静かだったはずの森に響き渡ります。コドモコドモと笑っています。よく見ると、遠くの方までずっと、腐った鴉が道標のように落ちていました。
 グレゴリーは、ひしゃげて醜い左肩を、服の上からぎゅっと掴みます。もう、痛みはありません。感覚すらも、希薄でした。
 腐ったような緑色は、軟膏の色のはずでした。
「だから…これから、僕は大人になりにいくんだよ!」
 いつまでも莫迦笑を続ける鴉たちから目を背け、グレゴリーはその標とは全く違った方向へ歩き出しました。
 獣道とすら呼べないような、鬱蒼とした森の中へ。
 耳障りな鴉の声を聞きたくないので、もう戻ることはできません。
これは一方通行の旅です。もう一度戻ってくるときには、引き返すのではなく、遠い道程を回って帰ってくるしかありません。
 歩けば歩くほど、道に迷うかもしれません。
 しかし、どこにも行き止まりはないのです。
 彼は一人、誰かに甘え続けた無力な自分を脱ぎ捨てるために、歩き出したのです。
 とっぷりと日は暮れて、冷たく見下ろす月が頭上で輝いています。しかし、狼の遠吠えだけは、いくら待っても聞こえませんでした。
 自分が、ヘンゼルに吐いた言葉が頭の中でぐるぐると回り続けています。
「僕は外道で、僕のせいで僕の大切な狼は死んだんだ。僕は最悪の人間だから、今すぐ殺されたって文句は言えないのかもしれない」
 グレゴリーの口から漏れる呟きは、誰の元へも届かずに、宙を停滞し続けます。
「でも……」
 グレゴリーは深呼吸をして目を閉じました。その目蓋の裏には、鮮やかなほどくっきりと狼男の、食事をする仕草が甦りました。
 使い慣れていないスプーンを、ヘタクソに持って、こぼしながら食べる、何とも愛しい姿でした。
「まだ死ねない。貴方が目を覚ましても、もう二度と逃げることがないようにならなくちゃ」
 グレゴリーは再び歩き出しました。
 グレゴリーはまだ森の中、出口など何処にも見当たりません。ただ濃くなっていくばかりの闇が、不安を煽っていきます。
 しかし、雨が降ることはありません。
 空は雲ひとつなく、ただ宝石を加工したような煌きを放っています。
ザッザッザッザクザッザッ
宵闇、濃紺に染まる森を、グレゴリーは歩いていました。息はまだ、まだ上がっていませんでした。































昔むかしの物語です。

「ねぇ、やっぱりそのスープ食べないで」
 スープを口に運ぶ男の動きが、ピタリと止まりました。
「それには…それにはね、毒が入っているんだ。貴方を殺してしまうかもしれない、強力な毒が」
 グレゴリーは、相手がスープを口に運ぶその一瞬前に、搾り出すように呟きました。
 その声はひどく震えていて、まるで初めて親を怒らせた子どものようでさえありました。
 グレゴリーは恐る恐る顔を上げます。
 狼男の優しく寂しい瞳が、自分を冷たく射ることを、勿論覚悟していました。
 それでもグレゴリーは、告白せずにはいられなかったのです。
 しかし、しかし!
 顔を上げた視線の先で、男はなんと、穏やかに微笑んでいましたとさ。
























<おし……まい…?>



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モドルヨ!