グレーテルはまだ森の中




第七話 悪夢



「うわー蟻がいっぱいいる!母様見て!蟻がこんなに!」
 カサカサの落ち葉を踏み砕き、少年は森の中で小さくしゃがみ込んでいました。その小さな足元には、さらに小さな蟻たちが、どこへ行くのか行列を作っています。
「ほら!母様!」
 夕焼けに、真っ黒な髪を橙に染め、少年は愛しい母を振り返りました。
 しかし、顔を向けたその先に、その名の女性はおりません。ただそこには、何本もの太く大きな木々が、無言で立っているだけでした。
「…母様?」
 少年は、希望に輝くその大きな黒い瞳を、不審そうに細めます。その瞬間、ただ無邪気だった黒曜石の眼に、なんとも不安な影が落ちるのでした。
 少年は、急に脊髄に氷を流し込まれたような感覚に襲われ、バネのように立ち上がりました。
 大きな瞳をいっぱいに開き、埃一粒すら見逃さないように、森中を見回すのです。
「母様!」
 怒鳴るような、不安な大声で叫びます。その声は、誰が聞いてもわかるほど震えていました。
「母様!」
 今にも泣き出しそうな叫びと共に、少年が駆け出します。どこに向うと言うこともなしに、駆け出すのです。その足元では、くたびれた黄色の葉が、グシャリと音を立てました。
 森はどこも同じような景色で、入るものを惑わします。右へも左へも行けない少年は、ただ真っ直ぐ母の元へと近づいていると信じ、走るしかありませんでした。
 走るたびに、何かを踏み砕く音がします。
 そしてその都度、少年の足の小さな生傷は増えていくのです。小さな赤い線が、何本も少年の足に重ねられていきますが、そんなことなどは、気にしていられないと言わんばかりに、少年はただ走り続けました。
 苦しげな息遣いが、いつしか枝を踏み折る音を掻き消していきます。
 世界は炎の中のような橙を通り越し、まるで不気味な桃色でした。
 少年は、先程まで壊れた時計のように早かった自分の心臓の音が、信じられないくらい落ち着き始めていることに気付きました。
 それは、例えるならば、嵐の前の静けさと近いものでした。
 こんなにも走っているのだから、苦しくならないはずはありません。
 しかし少年は、走れば走るほど、足取りが軽くなっていくのです。
それに気付いたとき、森中が、なんとも恐ろしい化け物であるかのように、思えました。
「母様!」
母を呼んだはずのその声は、少年の耳に、遠吠えとして響きました。

少年は、ひどく悲しい気持ちになりました、涙を流してしまいたいとも思っていましたが、どうもうまく流れません。
真っ暗闇の森の中で、自分一人でいるにも拘らず、怖いと感じていない自分が、ひどく恐ろしいもののような気がしていました。
いくら走ったでしょうか。
無数の切り傷は、真っ黒な針の毛の下に隠れ、本当に痛みも何も感じません。
気がつけば、見覚えのある場所に戻っていました。
 いえ、森はどこも同じように見えるのですから、本当はそれすらも気のせいだったかもしれません。
 しかし、そこには、そのくたびれた落ち葉の山には、小さな足跡が、深く残っていました。そこに、小さな誰かが、長い間いた証拠でした。
 少年は、恐る恐る、自分の足をそれに重ねてみました。
 長い爪の見え隠れする、その小さな獣の足とは、似ても似つかない足跡でした。
 月の光に煌く無様な枯葉の隙間に、墨を落としたような黒い痕が見えました。
 寂しさに充血した真紅の目を凝らすと、その黒い塊は、無数の小さな虫だとわかりました。
 たくさんの黒い蟻が、誰かに踏まれて死んでいました。
 少年は、もう一声だけ、母様、と遠吠えしました。それは細く細く伸びいていき、ビロードの空に溶けていきました。









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モドルヨ!