グレーテルはまだ森の中




第六話 不穏の月



二人の簡単な夕食は、外が橙色に染まり始め、日が暮れるまでに終わります。
 あんまりに簡単なもの過ぎて、片付けらしい片付けもありませんから、食事のあと男は、さっさとグレゴリーを小屋から出してしまうのです。
「迅速に行動しろ。最近は日が短くなっているんだ。一分一秒が命取りだぞ」
「はいはい」
 男はひどく真剣なのですが、グレゴリーは面倒くさそうに、あからさまに投げやりな返事を返します。
 そんな真面目な台詞に、むしろ吹き出しそうになることもある位ですが、さすがにそれはぐっと堪えるのです。
 しかし男はそんなグレゴリーの態度を諫める時間も勿体ないと言う風で、ぐいぐいとその細い腕を引っ張りながら、瓦礫の山を進むのでした。
「夜が明けるまで、絶対出て来るんじゃないぞ。さっさと眠ってしまえ」
 そう言って男がグレゴリーを追いやったのは、いつかのあの地下室でした。
 グレゴリーが発見し、探検し、夜まで男から隠れて眠っていた、あの地下空間のことです。
「毎晩言わなくたって、もうわかってるよ」
 小さなため息と二人、グレゴリーは仕方なく階段を下りました。階段は、もういい加減階段と呼ぶのも躊躇われるような坂ですから、転ばないように、足元には気を遣いながら。
 なんとなくじめじめしたその地下空間は、お世辞にも居心地がいいと言える状態ではありません。
 男と二人で生活をしている小屋にしても、住み慣れつつあるとは言え随分と粗末な場所だと思っていましたが、地下室はそれを軽く飛び越してしまっています。
 グレゴリーはやはりため息を隠すことができません。
「…やっぱり僕、上にいたい。片時も貴方の傍を離れたくないよ!狼だってへいき…」
「絶対上ってくるなよ!」
 くるりと振り返り、今にも泣き出しそうな潤んだ瞳で懇願するグレゴリーを、男は大きな声で怒鳴りつけました。
 ガツンとそう一言念を押すと同時に、階段の上でガガガと重い物を動かす音が聞こえてきました。
 グレゴリーが何か言おうとしている間に、階段の入口は徐々に徐々に狭くなり、地下室内へ差し込む光の量もだんだんと減っていきました。
 そうして何だかあっという間に、男によってグレゴリーは地下室へ閉じこめられてしまったのです。
「…ひどいよ」
 誰にともなく呟いたその台詞は、真っ暗な地下空間に、思いの外大きく響きます。
 グレゴリーは、つまらなそうにベットに身を投げます。するとベットはギャアとでも言うようなひどい悲鳴を上げるのでした。
 あの小屋にあったベットと大差ありません。
 夜は男が狼になってしまいます。それは、どんな相手であろうと、目の前の人間を餌と見なすようになると言うことです。
 いくら不味かったとは言え、男は次に狼の姿で対峙したとき、グレゴリーを攻撃しない自信はありませんでした。
 狼でいる間、人間である男の理性や道徳観念は、行動に反映されないのだそうです。どうやら狼は、本能のような、もっと大きな欲望に忠実に、生きているようでした。
 だから男は、夜になる前に、この地下にグレゴリーを隠すのでした。
 自分の目から、隠すのです。
 まるで、目の玉の位置にある硝子玉の檻に、閉じこめられているような感じだ。
 男の言葉がグレゴリーの頭を過ぎります。
 見えているのに、それは自分には全く手出しできない映像とは、一体どんなものなのでしょうか。
 グレゴリーは、窓のある独房などに幽閉されたこともありませんでしたから、よくわかりませんでした。
 きっと、夢のような物なのだろう。
 グレゴリーはいつも通り、深く考えるのが面倒くさくなって、そう簡単に結論づけてしまいました。
 男の考えでは、いくら狼が人肉を好物としていても、この重たい岩で蓋をした地下室まで、入ってはこないだろうということでした。
 今のところ、男のその思惑はうまくいっているようです。
 そうして男はグレゴリーがこの地下室で寝泊まりするために、急いでベットを一つ作ったのでした。
 しかし、当のグレゴリーはどうやらあまり面白くないようです。
 それもそのはずでしょう。グレゴリーは男は勿論、狼とも一緒にいたかったのですから。

 そんな欲求不満なグレゴリーのことなど露知らず、狼は自分の首に頑丈そうな太い鎖の首輪をつけていました。
 その首輪の鎖は、端が長く延ばされていて、どうやら森の中でも特に太くて大きな樹に、念入りに何重も何重も、巻き付けられているようでした。
 低温の炎が燃え尽きる瞬間のように、太陽は急速に、真っ黒な森へと吸い込まれていきます。
 橙は桃色に薄まって、夜の怪しさを象徴するような紫に墜ち、遠くの空は既にビロードのカーテンを引き始めていました。

 ドクン、ドクン

 男の心臓の脈打つ音が、眠りにつくかのように間延びしていきます。
 けれど、その一回一回は、生命の強靱さを訴えるような、強いものなのです。
 男が東の空を見上げると、そこには一つ穴が開いていました。
 半分かけた、切り分けられた果実のような、出来損ないの穴でした。
 それは、真っ白く、東の空に浮かんでいます。
 男の、夕日の名残のような赤い双眸が、空の果実を捉えました。
「うぅ…」
 ドクン、ドクドク
「…っ!…ぁあっ」
 その途端、その瞳は色を深くするのでした。
 急速に、男の心臓が鼓動を速くします。
 見る間に男の身体が闇に飲み込まれていくのです。
 それは、よく見ると硬く、一本一本が針のように研ぎ澄まされた毛でした。
 気がつくと男の体はすっかり闇の支配を受けて、ただその口だけが、痛々しげに耳まで裂けて真っ赤にテラテラと光っているのでした。
「ぁう…ウ…」
 苦しげに瞑られていた瞳が、闇の中を真っ赤な閃光が二本走るかのように開かれたかと思うと、森の奥の奥深くまでも届くような、力強い遠吠えが響きました。
 一本の細く強い叫びは、段々と色を濃くする空に、すぅっと吸い込まれていきました。
「アゥ…!ガゥ…!」
 大きな大きな狼は、血走った瞳を見開いて、苦しげに鳴くのです。
 太い鎖はしっかりとその首に絡まって、自由を奪っていますから、狼がどんなに爪を立てて土を抉り、前へ前へと出ようとしても、ただその鎖に、真っ黒な毛と肉が絡め取られるだけなのです。
 鎖に毟られて、その強靭さの跡形もなくなった漆黒の体毛は、惨めに宙を舞い、枯葉の中に落ちていきます。
 鎖の隙間に挟まれ、擦れ、赤々と血の滲む肉は、痛みを感じないはずはないだろうに、それでも狼の動きを止めるものではないのです。
締め付けられた首で必死に吼えながら、涎を撒き散らし、狼は前へ前へと向うのです。
 鎖を引く大木は、無情にもびくともしませんが、それでも狼は、爪の間から血が流れていることにも無関心に、ただただあがき続けるのでした。
 まるで自由を求める獣の、なんと滑稽なことでしょう。
 すっかり真っ暗なその森の中で、やまびこのように何度も何度も、ただ一匹の遠吠えだけが響きます。
 果実月は、星の光をかき消しながら、燦燦と夜空で笑うのでした。


バーーーーン…


狼の苦しげな音以外に、聞こえるものなど何もないと思っていたその秩序の元の静寂を、突如壊したものがありました。
銃声でした。
そして続いて、何匹もの鳥の飛び立つ音が聞こえました。
銃声は、狼の研ぎ澄まされた聴覚の、すぐすぐ傍で聞こえました。
爪の先、首、それらの箇所から流れる鉄の臭いに、嗅覚だけが鈍っていました。
狼の動きが、止まります。
すると其処に戻ってきた新たな沈黙の中で一つ、はぁはぁと荒い人間の息遣いだけが聞こえてきました。
それは、狼の背後、大木のさらに後ろから聞こえる喘ぎでした。
狼は、ゆっくりとそれを振り返ります。
しかし、振り向きざまに、何だか体に力が入らないことに気付くのです。
先程までは、いくらでも土を抉ることのできた力強い足が、フラフラと、その場に崩れるようにして折れてしまいました。
俄かに、空気中を漂う鉄分の割合が増えたような気がしました。
どろりどろりと、その針山のような剛毛の隙間を伝うものがありました。
脇腹です。脇腹から、血が、流れているのです。
狼は、その輝くルビーをゆっくりと細めます。目蓋が、急速に重くなっていくのが、わかりました。
落ち葉の布団に倒れ込む寸前に、ぼやけた視界の中に、一人の男の姿を見ました。
赤毛で長身の男は、健康であればさぞ美男子であろうその顔を、恐怖と、絶望でやつれさせていました。
「お前が…お前が…グレーテルを…!」
ただギラギラと輝く不躾な瞳だけが、男をすっかり下品なモノに作り変えていました。
狼は、グレーテルと言う名に、覚えがありません。
男の手には、猟銃が握られています。
 狼は、男を見ながら、まるで迷子の子どものようだな、と心の中で笑いました。
 狼にも、見に覚えのある姿でした。
 目蓋が完全に落ちるその瞬間、その隙間から見えたのは、枯葉の隙間から這い出てくる、一匹の黒い蟻でした。









BACK

NEXT

   






モドルヨ!