グレーテルはまだ森の中




第五話 俄日和



 男はフードを脱ぎ捨てて、黒いズボン一つで作業に当たっていました。
 ヒュッと斧が風を切る音を立てて、次の瞬間には太い木が真っ二つに割られています。
 太陽が乾いた地面に、短い影を作っていました。
 厳しい冬を間近に控えた風は、充分冷たいものでしたが、男の体は、じんわりと汗が滲んでいるようです。
「これからどんどん寒くなるから、薪はあってもあっても困らないものね」
 男の背後の方で声がします。いつかの綺麗なアルトでした。どうやらグレゴリーの声はすっかり元に戻ったようです。
 グレゴリーは健康的な太陽の光に金髪を煌めかせ、楽しげに微笑んでいました。その暖かな日差しの下で、なんとも不釣り合いに白い肌が、透けています。
 両手には、そこかしろの城の残骸から拾い集めてきたのでしょう、手頃な形の煉瓦が抱えられていました。
「まぁ、まずはそれをくべる暖炉を作らなきゃだけどね」
 その華奢な体には、重い煉瓦を持ちながら、肩をすくめるのも難しいように見えます。
「料理もろくにできない奴が、暖炉なんか作れるのか」
「いい暖炉が作れたら、料理も美味しくなるかもしれないでしょう」
 馬鹿にしたわけではなくとも、なんとなく上から見るような男の物言いに、グレゴリーはそっぽを向いて歩き始めます。
 しかし男の言っていることはとても正しくて、大きなお屋敷でたくさんの使用人に囲まれて生きてきたグレゴリーは、美味しい料理の一つも作れないのです。
 何度か調理を試みてみたのですが、無駄な怪我をしたり、効率よく材料をさばけなかったりと、味云々の問題ではありませんでした。
 結局半端ヒステリーを起こしたグレゴリーから包丁を奪うようにして、男が二人分の食事を作ることになるのです。
 男にしてみれば、手間が増えただけのように見えます。
 しかも、グレゴリーは今朝、暖炉が欲しいとも言い出したのです。
 男がずっと住んでいた、独房のような小部屋に、煉瓦を積んで暖炉を作ろうと言うのです。
 男はそんなことはいいから速く森を出ろと言ったのですが、グレゴリーときたら「僕は貴方と一緒に暮らすつもりだから、これから来る冬に向けて、暖炉は必要不可欠なんだ」と、自分の意見ばかりを言って、男の言葉を聞き入れようとはしませんでした。
 そうしてその強気な笑顔に押し切られる形で、男はいつの間にか薪を割っているのでした。
 取りあえず、今まで切った分を小屋に運ばなければなりません。
 太陽はまだまだ中天と言っても、男には時間がないのですから。

 男が小屋へ入ると、窓の向かい側の壁に、いくつかの煉瓦が不安定に積み重ねられていました。
 グレゴリーは、その前で仁王立ちしています。
「…テーブルも欲しいな…」
 男は、「また始まった」と、小さく口内で呟きました。
「やっぱいつまでも二人で並んで床で食事っていうのは、どうかと思うんだよね」
 グレゴリーは、基本的に欲しがり屋でした。わがままと言うかも知れません。生まれてこの方、温室のような館の中で、欲しいものは何でも手に入る、まさに王子様のような生活を送っていたのですから無理もありません。
 そして今グレゴリーは、自分の希望はすなわち世界の基準。全て思い通りにならないはずがない、と考える少年に成長したのでした。
 つい先日、狼と出会うことのできないもどかしさを経験したばかりのはずですが、どうやら目的の達成された今となっては、忘れ去られた過去なのでしょう。
「…水を汲んでくる」
 男はグレゴリーの言葉を完璧に聞かなかったことにして、ドアの脇に置いてある二つの大きな木バケツを持つと、さっさと小屋を後にしました。
「あっ!待って!」
 グレゴリーは、やっと小屋へ戻ってきたにも関わらず、疾風のように消えていく狼男の後を、慌てて追いかけます。
「僕も行くよ!川の位置、まだよくわからないから。覚えておきたいんだ」
 男の足は長く、歩幅も大きかったため、グレゴリーは小走りでやっとその背中に追いつくことができました。
「…お前は小屋で暖炉だかを作るんじゃなかったのか?」
 意地悪で言ったわけではありませんでしたが、言葉に混ざるため息を消すことはできませんでした。
「そうだけど…今は休憩だよ。昼間は短いんだ。少しでも長く、貴方の傍にいたいんだもの」
 グレゴリーはそう言って、バケツを持つ男の腕に絡まります。
 グレゴリーにそうやって可愛く甘えられてしまえば、男は強く言えないのでした。
 それは勿論、グレゴリーも承知のことです。
「…ねぇ、テーブル欲しい」
 男は思わず目を瞑ります。
「椅子もね。二人で向かい合って、食事したい。床で食べるなんて、動物じみてるよ」
「…別にいいじゃないか、人間だって動物だ。それに私は、正真正銘の獣だよ。どうしてもと言うのなら、お前の分だけ自分で作れ」
 男は、明らかに人間のそれとは違う長い耳を、ピクピクッと動かして見せます。
 そうやって喋る男の口元からは、よく見ればチラチラと牙が覗きもしますから、獣だと言うことをグレゴリーだって忘れてはいませんでした。そもそも、相手が狼だからこそ、グレゴリーは、自分がこんなにも執着していると思っていたからです。
「…ペットとご主人様が同じテーブルで食事しては駄目な決まりなんて、僕はないと思うよ」
 男は別に自分が相手のペットだと思ってはいませんでした。むしろ自分こそが、気まぐれな猫でも飼いだしたかのようだ、とも思っていました。
 しかし男は、ここでグレゴリーの言い分をわざわざ否定するのも面倒なので、その点は突っ込まないことにしました。
「…ただ作るのが面倒なだけだ」
 ぼそぼそと水気のないお菓子でも噛むように呟き、上目遣いで自分を見てくる相手を見つめ返します。 
   この深緑の瞳に、どうしてか自分は逆らえなくなりつつある、そう言った恐怖とも快感ともつかない感情が、男の中には芽生えていました。
 そして男は、そんなぼやけた霧を振り払うかのように、話題を逸らすのです。
「…ところでお前、川への道順はちゃんと覚えたのか?」
「…あっ…」
 男は、大きく、これ見よがしにため息をつきました。
 しかしグレゴリーにははじめから、道なんか覚える気はありませんでしたので、悪びれる風もありません。ただ誤魔化すように美しく笑うだけです。
「水を汲むから、ほら、どけろ」
 直視してしまえば、細かいことなど全てどうでもよくなるような、そんな魅惑的な笑顔でしたが、あえてそれを見ないように瞳を伏せます。
 腕に絡まっていたグレゴリーを、鬱陶しそうに押しやり、男はざぶざぶと川の中へと入っていきました。
 深くもなく、浅くもなく、勿論流れの速いものでもありません。泳ぎ回る小魚や、太陽に光る小石が、少し離れたグレゴリーの位置からでも、充分見て取れるほど水は澄んでいるようでした。
 バケツをいっぱいにした男は、重たくなったそれを川辺に二つ並べて、今度は自分の汗を、流し出しました。
 日に焼けた健康的な小麦色、そんなものではありません。だからと言ってグレーテルのように、透けるような白い肌、と言うのでも勿論ありません。どちらかと言えば、日に焼けていない、青白い肌でしょう。どこか不健康そうなそれは、影のある表情に、とてもよく合っているように、グレゴリーには思えました。
 筋肉の付き方などは、それこそ肉食獣のしなやかさが見て取れます。
 グレゴリーはそんな、水浴びをする男の身体を見て、なんだか彼が狼男であることが、羨ましくなってしまいました。自分の華奢で少女のような四肢が、実のところあまり好きなわけではなかったからです。
「僕も狼男になりたい」
「…何を急に…馬鹿なことを言うな」
 グレゴリーの言葉に驚くでもなく、ただ男は心底不快そうに顔を歪め、静かに振り返りました。
「貴方を見ていたらそう思ったんだもの」
 しかしグレゴリーの表情も、真昼の空の下で、滑稽なくらい真剣です。
 いつもどこかふざけたようなグレゴリーでしたが、その一瞬の声だけは、羨望とも嫉妬ともつかない、複雑さを持って発せられていました。
「…お前は何も見えてないんだな…」
 男はどこか淋しそうにそう言うと、グレゴリーから目を逸らしました。
 男の顔は、いつも無表情が張り付いたように見えますが、今はそこから、どろどろとした嫌なものが滲み出ています。男の両肩に、何だか重たく、冷たい物がおぶさって、今にもしなやかな狼を押しつぶしてしまいそうにも感じられました。
 グレゴリーは、男の言葉に、なんとなくバツが悪いような気がして、口の中で「ごめん」と短く呟きました。男には、聞こえていないようにも見えました。
「…狼男って生まれつきなの?」
「………そう言う類もいるが、私は違う」
 グレゴリーは相槌をうつでもなく、川辺からじっと、男を見つめていました。その視線は無言のうちに、話の先を促しているようでした。
 男は、大きな手で顔面の水を拭いました。
「十歳にもならない頃に、私の短い人生は終わり、亡霊としてまた始まったのだ」
 男は感情の見えない静かな声で、語り始めました。
「母が魔女だった。だから小さい頃から、魔法や魔術、薬草について学ぶのが好きだった。母の蔵書の中に出てきた、魔法使いと言う不思議な存在こそ、きっと自分の道なのだと思っていた」
 グレゴリーは、じっと男を見つめたまま、視線を揺らすことをしませんでした。ここで少しでも逸らしてしまえば、そこで男は、もう二度とグレゴリーに語りかけてくれなくなるような気がしたからでした。
「子どもだったから、何が危険で何が違うのか、全然わかっていなかったんだ。母の蔵書の中で一冊、何故だかいつも自分を呼んでいる気がして、すごく気になっていた本があった。…今考えると、自分は浅はかだったと思う。魅惑的なものに、結局善良なものなんてないんだと、わかったから」
 まるで、自分のことを言われている気がして、グレゴリーはそっと息を呑みました。
 伏し目がちな男の表情は、逆光になってしまって、うまく読みとれません。
「ある日私は、母の目を盗んで、とうとうその本を開けた。その瞬間、私の人生は全く見ず知らずのものの中へ墜ちた。その本は遙か昔に人狼について書かれた本だったのだ。本は永い年月の間に魔力を持ち、いつしか実体になることを望んでいた」
 先程まで清らかな水を弾いていた男の身体は、いつの間に冷たい風にすっかり乾いてしまっていました。
 緩慢な動作で顔を隠していた黒髪を掻き上げ、男はやっと顔を上げました。
「そして私は、人狼の本の主人公になってしまった。永い時をかけて熟成された本の呪いを、この身に受けてしまったのだ」
 男は憤るでもなく、泣くでもなく、勿論笑うでもなく、ただ無表情を崩さずに、そこに立っていました。
 河原に置きっぱなしだった大きな木バケツを両手に持ち、それはしっかりとした足取りで、グレゴリーの傍へ戻ってきます。
「月が上れば、私の中にいる狼が目を覚ます。自分以外の生物が、全て食事に見えてくる。だから私は、十にならないときからあの小屋で暮らしている。月を見るたびに街の人間を食い散らかすマナーの悪い狼には、森で独りで生きるしか道はなかった。」
 グレゴリーは、男の深紅の瞳に見えた血の海と、その影に浮かぶ寂しさの正体を、わかったような気がしました。それは、何故自分がこんなにも狼に惹かれたのかと言う答えに、ほんの少しだけ近づいた感覚でもありました。
 けれどその閃きはそうと気づいた次の瞬間には、グレゴリーの手を放れてしまうのです。
 そしてまたグレゴリーは、訳も分からずに狼を求める自分に戻ります。
 男はそれきり何も言わないまま、グレゴリーの脇を通り抜け、元来た道を戻りはじめました。
 男とすれ違うその時に、グレゴリーの鼻を、冷たい水の匂いが掠めます。それは、理由もないのに涙が出るような、そんな匂いでした。
 歩き出した男の両腕の筋肉は盛り上がり、筋が浮いています。それは、誰の助けも必要としないような、そんな力強い腕でした。
 しかしグレゴリーには、いっぱいに水の入ったバケツはやはり、ひどく、ひどく重そうに見えました。
 二人の間には、どこか気まずい沈黙が漂っていましたが、グレゴリーはこの話を聞かなければよかったなどとこれっぽっちも思ったりしませんでした。
 少し遠くなってしまった背中を追いかけて、グレゴリーが急に駆け出します。
 追いつき様に、グレゴリーは男のバケツを一つ奪い取りました。
「これからは、食事の支度は僕がするから」
 それだけ言って、グレゴリーは男を振り向きもせずに、早足で行ってしまいました。
 水の入ったバケツはとても重たいので、グレゴリーはそれを持ったまま男より速く歩くのが、大変で大変で仕方ない様子です。 
 そして、よろよろと危なげなその後ろ姿を見ていると、男の口元は、自然と緩くなってしまうのでした。
 前を行くグレゴリーに聞こえるよう、男はいつもより少し大きな声で声をかけます。
「…だから、お前ろくなものつくれないだろ」
 男のそう言った声が、どこか今までよりも優しい気がして、グレゴリーは何故だか少し、不安になりました。









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