グレーテルはまだ森の中




四 夢



 グレゴリーは夢を見ていました。
 グレゴリーの手の中には、木製の鳥篭がありました。両手で抱えるくらいの、大きな鳥篭でした。
 グレゴリーの目の前には、いくつもの扉がありました。
 手前のいくつかは大きく開いていましたが、目を凝らすと遠くの扉は、しっかりと閉じていることに気づきました。
 奥に行けば行くほど、扉は木から鉄になり、その取っ手には鎖や錠がかけられているのが見えます。
 本当ならきっと見えないはずですが、夢の中なので、グレゴリーには見えたのです。
 一歩踏み出すと、ぴちゃりと水の音がしました。
 もう一歩踏み出すと、くちゃっとその音は重たげなものに変わりました。
 どこか遠くのドアの隙間から、どす黒い粘液が、流れ出ているのです。
 グレゴリーは、血の海の中に立っていました。
 ドンドンドンと乱暴に扉を叩く音がします。
 グレゴリーは、何故かそれが、外の人が叩いている音だとわかりました。
 乱暴な音はだんだんと大きくなっていきます。
 気が付けば、グレゴリーの手の中の鳥篭は、グレゴリーをすっぽり包むほど大きな、鉄製の檻になっていました。

 グレゴリーが目覚めたのは夜でした。
 動くとギシッと音のする、腐ったベットの上でした。ほんの少しの体重移動でも、悲鳴をあげるベットです。
 グレゴリーにはそのほんの少しの体重移動ですら何故かうまくいきませんでした。体が自分の意志の通りに動かせないのです。
 グレゴリーは不思議に思って考えますが、何も思い出せません。先程まで見ていたはずの、夢の内容どころか、何故自分が眠っていたのかも。
 雨の中で、探し回っていた気がします。
 何を?
 真っ黒な…
 狼です。
 狼が、月明かりの中、牙が、近づいて
 グレゴリーは、記憶が混乱していました。
 部屋の中は真っ暗で、どんな類の灯りでも、一切ありませんでした。
「今夜は新月だ」
 闇が喋りました。
 グレゴリーはいい加減驚く程の元気もなく、ゆっくりなんとか、視線だけ声のした方向へ向けました。
 そこには、ぼんやりと白い口元だけが浮かんでいました。それは、闇色のフードを被った男でした。
「………ぁ」
 グレゴリーは声を発したつもりでしたが、どうも掠れてしまってうまく出すことができませんでした。
「無理に動かない方がいい。ずっと眠っていたんだ。声も何も、出たものじゃないだろう」
 闇は静かに身を屈め、ベットに眠るグレゴリーに、視線の高さを合わせました。
「…どのくらい眠っていたの?」
 まるで、自分の声ではないようだと、グレゴリーは思いました。あの小鳥の囀りのように美しかったアルトは、ガサガサと、落ち葉が掠れるような音になっていました。
「数えてない…何日間も、だ」
真っ暗闇の中に、今度はぼうっと、男の青白い手が浮かびます。その手が、グレゴリーの喉元に触れました。目を凝らすと、喉元から胸にかけて、包帯のような何か布が巻いてあることに気づきます。
 男は、泡でも掴むような優しい動作でその布を解いていきました。
 露わになったグレゴリーの真っ白な肌が、男の腕よりも鮮明に、闇の中に、静かに浮かび上がります。
 その肌の上には、所々、真っ赤な花が咲いていました。
 それは、ほとんど治りかけた傷跡のようでした。
 傷を確かめるように、男の無骨な指がグレゴリーの肌をなぞります。グレゴリーは、触れられると微かに感じる痛みに、眉を寄せました。
「大分深い傷だったんだ。お前は死ぬところだったし」
 男は、手の中に持っていたのでしょう、木製の小瓶から、どろっとした緑色の軟膏をとって、グレゴリーの傷口に塗りつけます。
 グレゴリーは、そのひやっとしたなんとも気持ちの悪い感触に、思わず目を背けました。
それにしても、生死の境を彷徨うほどの重傷が、どうしたらこんなに治るのでしょう。自分はどんなに長く眠っていたのか、グレゴリーは何だか薄気味悪い気持ちでいっぱいでした。
しかし、何よりもグレゴリーは奇妙に思っていたのは…
「貴方は…」
軟膏を塗り込め終わると、すっと手は離れていきました。
「貴方は、真っ黒な狼なんですか?」
 男は、フードの下の見えない目で、グレゴリをじっと見つめてるようでした。
「…そうだ」
「魔法使いなんて嘘だったんですね」
「違う。それも本当だ。だからお前を看病できた」
「でも狼じゃないか」
「…人狼と言ってくれ」
 グレゴリーは、顔の見えない男を、心の中で強く、強くじっと見つめました。
 グレゴリーの指先が、ぴくりと動きます。先程からずっと、体を動かそうとしていたのです。
「…見せて」
 暗闇が揺れました。グレゴリーが、ゆっくりとぎこちない動作で、男の顔に手を伸ばします。
 震える指が、男のフードを脱がしました。
 低い二つの呼吸音と、布擦れの音だけが、部屋の中を埋め尽くすようでした。
 男はまるで従順な犬のように、グレゴリーの成すがままにされていました。
 今まですっかり男の顔を覆ってしまっていた暗闇は、グレゴリーの手で剥がされたのです。
「暗いから、よく見えないよ」
 グレゴリーは男の頬に当たるだろう場所に触れ、小さな力で、近づくことを促します。
 男は何の抵抗も見せないまま、グレゴリーの顔へと、自分のそれを近づけました。
 二人の鼻と鼻とが、触れ合うような距離で、男はぴたりと止まります。
「…やっぱり…」
 伸び放題で所々顔を隠す男の黒髪を、グレゴはもう一方の手でそっと後ろへ避けます。
 その時触れた男の耳は、グレゴリーの二倍はあるだろう長さで、その先端はどうやら尖っているようでした。
 頬に当てていた手をゆっくりとずらし、その大きな唇に触れてみると、それはグレゴリーの予想よりも、ずっと暖かいものでした。
 そしてグレゴリーは、じっと一点を見つめています。
 闇を切り裂くような、切れ長の瞳は…
 瞳は、やはり血の海のような紅でした。
「………綺麗だ」
 グレゴリーの唇から漏れる声は、相変わらず掠れていて、聞き取り難いものでした。
 二人はお互いに、お互いの呼吸しか聞こえない闇の中で、四つの宝石の中に、捕らわれていました。
 紅玉の中にいる自分は、まるで血の海に浮かんでいるようだと、グレゴリーは思っていました。
 どれだけの時間二人はそうしていたのでしょうか。
 その異様な空間を壊したのは、グレゴリーでした。
「…狼を探していたんだ」
 グレゴリーは、幾分自由を取り戻しつつある両腕を、男の首に絡ませます。
「狼が貴方なら…僕はそれでいいんだ」
 相手に縋り付くように抱きつき、ぎゅっと瞳を閉じます。
 体の悲鳴など、グレゴリーには聞こえません。
「どうしても森で見かけた狼に会いたかった」
「…何故?」
「何故だかわからないけど…」
 グレゴリーは、自分の中の支配欲を、屈折した愛を、口に出して説明できるほど語彙もなければ、己のことも知りません。
 男はこれっぽっちも表情を変えませんでした。端正なはずなのに、どこか翳ったその顔は、無表情のまま、闇を見つめています。
「…お前、変わっているな」
 男の大きな手が、その無骨さからは想像できないほどの優しさでもって、グレゴリーの背中を支えました。
「俺には、お前の言っていることがよくわからないけど…」
 男は子どもでも寝かしつけるように、優しい力で、グレゴリーの背中を叩きます。
「…きっと、狼をペットにでもしてみたかったんだろうな」
 男の声は、雨上がりのあとに雨雲を散らす、風のようでした。
 やはり男は魔法使いなのでしょうか。
 男の方がグレゴリー自身より、よほどグレゴリーを理解しているようにも思えます。
 グレゴリーは、揺れるエメラルドをそっと開き、男の耳元に囁きました。
「…どうして僕を食べるのを、途中で止めてしまったの?」
 まるで、食べられたかったとでも言うような、そんな意味深な口調でした。
 男の頬に一瞬熱がよぎります。しかしそれは、本当に微かなものでしたから、男がその正体を見極めるよりも速く、過ぎ去ってしまいました。
「それは…」
 グレゴリーは、能弁な緑の瞳を、そっと細めます。その途端に、彼は驚くほど大人びた表情を見せるのです。
「………ただ不味かったから…」
 全く持ってグレゴリーの予想に反したその言葉に、思わず一瞬目を見開きました。
 しかしグレゴリーはすぐに楽しげに目を細め、クスリと笑います。
 それは、狼を誘惑しようと大人びた、作り物の笑顔ではなく、歳相応に無邪気で、返って相手の心に滑り込むような、そんな綺麗な笑顔でした。
 
 その日から、二人の生活は始まりました。
 それは、前向きなものとは言い切れませんでしたが、それでも、穏やかな時間でした。
 台風の、目のようなものだったのかも知れません。嵐は、確実にすぐ傍に、迫っていましたから。









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