三、雨の悪戯
ブツブツと雨が煉瓦を激しく打つ音に、グレゴリーは目を覚ましました。
ほんの少しの暇つぶしにと思ってはじめた地下探索が、想像よりも入り組んでいたその道のために、グレゴリーの体力を消耗させていたのです。
疲れに任せて目を閉じると、気がつけば空はとっぷりと暮れてしまっていました。
夢も見ないほど深い眠りでしたが、グレゴリーの頭は驚くほどすっきりと醒めていました。
どこかの煉瓦の隙間から入り込んできた雨が、地下で小さな水たまりを作っています。
暗闇に目を凝らしながら外へ出ると、一瞬にしてグレゴリーは濡れ鼠になってしまいました。
まるで、仇でも打つような雨が、肌を破くほど激しく、痛みすら感じます。
月すらも、暗雲の後ろに隠れて居るのですから、狼だって外に出ないのではないでしょうか。グレゴリーは半端諦めを感じましたが、濡れ鼠なまま地下へ戻る気にもなれず、とぼとぼと元気なく歩き始めました。
雨の森は、グレゴリーの目にはまるで大きな黒い塊のように見えます。今にも大きく伸びをして、のそのそと動き出す、怪獣のように映るのです。
小さなか細い少年一人くらい、容易にその闇の中へ取り込んでしまうのではないでしょうか。グレゴリーは、背筋に冷たいものを感じました。勿論それは、雨の雫ではありませんでした。
顔面から、水の滴りよりも速く、血の気が引いていくのがわかります。
グレゴリーは、冷たい恐怖を振り払うように、ぐっしょり濡れて重たくなった前髪を掻き上げ、顔の水を無造作に拭います。
突如、たった一人きりだと言う事実が、無性に怖いものに思えました。
一刻も早く狼の首にすがりつきたいと思いました。
しかし狼は一向に出てきません。
グレゴリーは、生まれてはじめて、ちっとも自分の思い通りに行かない事態に、苛立ちよりも大きな、恐怖を感じました。
気は強いし、自分以外は嫌いで、それまでグレゴリーは一人が怖いだなんて思ったことはありませんでした。
それでも、こんな風にどしゃぶりの中を一人で何処へともなく歩いていると、何だか小さい子どもが、迷子になったような感覚に陥ってしまうのです。
狼の名を呼んで探そうにも、グレゴリーがそれを知るはずもありません。
下をむいたまま歩き続けたせいで、自分がどれだけ歩いたかもわかりません。
激しい雨が流したせいで、足跡を辿って戻ることもできません。
こんなどしゃぶりに、よせば良かった。
グレゴリーは心底後悔しましたが、その時にはすでに、周りは闇で塗りつぶされていました。
しかし、今歩みを止めることは、できません。
立ち止まったところで、誰かが助けてくれる保証もないからです。
グレゴリーは、ほんの微かな、狼に会えるかもしれないと言う望みにかけて、歩くしかなかったのです。
小さな頃に、大抵の人は迷子の経験をするものでしょう。
しかし、グレゴリーには、それがありませんでした。蝶よ花よと育てられ、誰からも大事にされたグレゴリーが、ひとりぼっちもまま、どこかへ置いて行かれることは一度もありませんでした。
その代わりに、幼なじみでありいとこのヘンゼルが、使用人をはじめ実の親からもことあるごとに忘れられ、遠出した先で置いてけぼりを食らうこともしばしばでした。
それにグレゴリー自身も、小さい頃から大人びた、とても賢い子どもでしたから、自分自ら戻って来られないほど遠くに一人で出かけることをしませんでした。森での遭難者の末路を使用人の噂話から盗み聞きする度に、迷子は怖いものであると思い知ってきましたから。
勿論、ヘンゼルに何処へともなく引っ張っていかれて、見知らぬ場所へ行って帰れなくなることは何度かありました。しかし、そう言ったときには、必ず使用人や両親が迎えに来てくれましたし、何よりそのあとヘンゼルが大人に怒られるのを見るのが、グレゴリーは大好きでしたから、ちっとも怖くはありませんでした。
今回も、いえ昨夜も、あのままヘンゼルと手を取って森をさまよい続ければ、次の朝には使用人達が、二人を捜し出してくれたのでしょうか。
そしてヘンゼルは、嫌がるグレゴリーを無理矢理森へ連れていき、遭難しかけた、と言う理由で、雷を落とされていたのでしょうか。
それは、予想のできる安易な結末です。
そして、グレゴリーは、また生ぬるい日常の中で、生きているのか死んでいるのかわからないほど弛緩して、だんだんと歳を取り、美しさが枯れていくのを待つのです。
それは、それは、
今の状況と、どちらが本当の恐怖なのでしょうか
「おいっ!」
その時です。四方の闇のどこからか、鋭い怒鳴り声が聞こえました。
その声に驚いて周りを見回すと、黒一色の景色の中から、ぬっと大きな手が伸びて来て、グレゴリーの細く冷え切った腕を掴みました。
グレゴリーは、短い悲鳴を上げました。
「ヒッ…!」
「まだ森から出ていなかったのか!こんな雨の中…」
その声は、昼間の男のものでした。風の音のように、低く響くあの声でした。
聞き慣れたものではないはずなのに、その声は、グレゴリーの不安を、そっとかすめ取って行きました。
俄にグレゴリーの顔に色が戻ります。
「いや…雨だったからこそ、命拾いしたんだな…」
男は雨にかき消えるほどの小さな声でそう呟きました。独り言のようでした。
「とにかく…お前は冷え切っている…一旦小屋へ戻るぞ」
闇に同化したフードの隙間から、ほんの少し、その口元が覗いていました。それは、不機嫌そうに歪められていましたが、グレゴリーには、今まで出会った誰よりも、優しい存在に映りました。
「………ありがとうございます」
意識すらしない間に、グレゴリーの小さな唇から、言葉が零れました。
グレゴリーの腕を掴む手は、同じくらい冷たくて、お世辞にも優しい力ではありませんでしたが、それでも、闇の中を一人ではないと言うことは、こんなにも心強いものなのだと、思わずにはいられませんでした。
「…雨だからな………」
グレゴリーは、闇の中で掴みかけた何かの答えを、感じ慣れない恐怖とともに、森に置き去りにしていきました。
「雨の日は、狼は出ない」
自分でも予想していたこととはいえ、その言葉に、グレゴリーは落胆しました。
「だから、お前は今夜まだ生きていられる」
先ほどの小さな部屋に暖炉はありません。今は暖をとるために、部屋の中央に薪を置き、無造作に火を灯していました。
男はその火に鉄の三脚を掛け、錆びた鍋を乗せて、何やら暖めています。臭いから察するに、中身は獣の乳のようでした。
「それにしても…随分と早くに出たはずなのに、どうしてお前はまだ森の中にいたんだ?」
暖めた乳を、所々欠けた古いコップに注ぎ、男はそれをグレゴリーに渡しました。
「実は極度の方向音痴なんです」
グレゴリーは、濡れた服を脱がされ、擦り切れたボロ布のようなものでくるまれていました。それでも火の傍に寄っているので、凍えることはありません。それに先ほど渡されたカップから掌に伝わる熱は、まるでその乳を出した獣の体温が伝わってくるように、心地よいものでした。
「それは大変だな…仕方ない。明日の朝は、鴉の死体が並ぶ道まで、私が送って行くしかないな」
男の口調はいかにも嫌々と言った感じでしたが、グレゴリーは暖めた何かの乳に口をつけ、聞こえない振りをしました。
グレゴリーは、まだ諦めていなかったのです。
昨夜から自分の心に焼き付いてしまったあの美しい獣を見つけるまでは、どんなにしても森を出るわけにはいかなかったのです。
生まれてはじめて感じた恐怖心は、あの森の闇に置き去りにしてきました。
それに、グレゴリーは、根拠もなく、無闇に信じていたのです。
出会えるはずだと。
それは、運命などと甘い言葉で飾るには、あまりにも小賢しい直感でした。
こんな風に、誰かが一瞬にしてたった一つの何かに執着するこの感覚に、世界は名前を付けています。
しかし、グレゴリーはそれを知りません。
もし知っていたとしても、この時まだグレゴリーは、それを認める強さがありませんでした。
「僕は、どうしてもまだ森を出るわけにはいきません」
グレゴリーの美しいアルトが響きます。
男はフードの下で、見えない顔を歪ませました。
「何故だ?一刻も早くこの森を後にしなければ、お前は狼に喰い殺されてしまうのに」
「でも、貴方はこの森に住んでいても平気じゃないか?」
「それは…」
「それは?」
男は口ごもります。
グレゴリーも、譲りません。
挑発するようなグレゴリーの瞳は、妖しい夜空の禍星のように光ります。
「それは………私が魔法使いだからだ」
「魔法使い?」
お菓子の家に住む男は、魔女でこそありませんでしたが、魔法使いだと言うのでしょうか。グレゴリーは、怪訝そうに整ったその眉を寄せました。
「…呪術師、薬師…他に何と言ったらいいかわからない。私はこの森で育った。学がないんだ」
「?一体どれが正しいんですか?少なくとも僕の中で、その三つは明らかに異なっているし。貴方は何をする人なの?」
「具体的に言うと…嗚呼…それも色々あって言い表せないのだが…草を使って薬を作ったり、何かを何かに変えたり…」
「それじゃあ貴方は万能じゃないか」
グレゴリーは、頭から信じる気はないらしく、どこか相手を馬鹿にした調子でそう言いました。男は、何となく言葉に詰まりながら、しどろもどろと話を続けます。その声に、先ほどまでの、グレゴリーに対する厳しさは見えません。
「万能なわけではない…!私だってしたくともできないこともある。何かの見た目を変えるのだって、簡単なわけではない。上手く言葉にはできないが、条件のようなものがあって、それができると思ったときしか、私にはできない」
正直グレゴリーには相手が何を言ってるのかわかりませんでした。
しかし、相手の言葉は微かに震えています。どうやら全が嘘だとも思えません。
しかし、真っ白い屋敷の中で、自分のよく知ったもの達に囲まれて生きてきたグレゴリーには、魔法使いと言うものを信じるだけの許容範囲がありませんでした。自分の知らない世界があると、認めることができません。
そもそも男の言っていることを、自分の知識と照合して租借することもできません。
男も、グレゴリーも、今まで生きてきた世界が小さすぎた為に、知識があまりないのでした。
「…だからってそれが…貴方がこの森に住んでいても、狼に喰い殺されない理由になると言うの?」
グレゴリーにとって大切なのは、男が魔法使いかどうかではありませんでした。
男が何故この森で生きていけるかです。
グレゴリーは、魔法などと言うよくわからないものについて、追求することも、考えることもやめることにしました。
「…そうだ」
「理解できない。魔法使いだったら、どうして平気なの?僕が駄目で、貴方がいい、その決定的な違いは…」
「どうだっていいだろう!」
グレゴリーの責めるような言葉を、男の、いや、魔法使いの怒鳴り声が遮ります。
神風でも吹くように、突如彼の声に、張りが戻ってきました。
さすがに気の強いグレゴリーも、その声のあまりの大きさに、思わず口をつぐんでしまいます。
「お前は明日の朝森を出る。だからどうだっていいんだ!」
「なっ!だから僕はまだ森を出るわけにはいかないって…」
「知らん。…もう寝ろ」
反抗するグレゴリーの声を、尚も男は一刀両断するのです。グレゴリーはそれでも不満を叫びましたが、相手がもう何も聞き入れないと言う風に背中を向けたので、それを止めました。もう何を言っても無駄なのだと、本能的に悟ったのです。
もし明日このまま森を出ることになったらどうしたものか、グレゴリーはたまらなく不安な気持ちになりました。
そしてその不安を打ち消すように、手の中ですっかり冷めたコップの中身をぐっと飲み干します。
しかし冷めた乳は予想以上に不味く、胸の内の暗雲は濃くなるばかりでした。
ボロ布の間から覗くグレゴリーの白い肌が、踊る炎の光を受けて、妖しく輝いています。
しかし、男はグレゴリー自慢のそれを、見ることすらしません。
グレゴリーは、どんな幸福でも、不幸でもいいから、どうか何かが起こって、この森から出られなくなりますようにと、強く何かに祈りました。
明日も雨が続くのでしょうか。
「ねぇ…」
その時ふっと思いつき、グレゴリーは、返事も返さない男に呼びかけます。
丸まった大きな黒い背中は、声すら飲み込むブラックホールのようでした。
「貴方のフードも濡れてるでしょう?脱いだ方がいいよ」
男の着ている黒いフードのマントは、雨に濡れたままで、ぐっしょりと重たげです。
「………もう乾く」
男のマントの裾からは雫が滴り、煉瓦の床に、小さな水たまりを作っていました。
ぴちゃり
ぴちゃり、ぴちゃ
水の滴る音が気になっていたため、グレゴリーの眠りは、とてもとても浅いものでした。
それでも体は疲れていましたから、瞼だけは泥のように重たいのです。
「うぅ…うっ…うぁ…!」
いつの間にか、グレゴリーの背後から、苦しげな呻き声が聞こえます。そのせいでグレゴリーは、完全に眠りの中から引き戻されてしまいました。
「…どうしたの?」
グレゴリーの背後にいる人物は、一人しかいません。
自称、魔法使いの男です。
グレゴリーは、大儀そうに体を反転させて、後ろを振り向きます。粗末なベットはグレゴリーが独り占めしていましたから、男は部屋の隅で、眠っているはずでした。
「くっ…雨が…!」
「…雨?」
窓からは、真っ白な月の光が、無遠慮に射し込んでいました。雨よけのカーテンは、どうやら風で開いてしまったようでした。
煉瓦すら崩してしまうように思えたあの土砂降りが、いつの間にか、綺麗にやんでいるのです。
「嗚呼…やんだんだね」
グレゴリーは、雨上がりの澄んだ世界を見て、夜の森は美しいものだなぁと、初めて思いました。
「…っ…逃げろ!」
「…は?」
今まで男は何度かグレゴリーに声を荒げましたが、その叫びは、それらのどれとも違うものでした。
悲痛に掠れた声は、喉から絞り出すと、血が出てしまうのではないかと。
しかし、グレゴリーはその一瞬間では、男の言っていることを飲み込めませんでした。
月光の中うごめくその闇の塊に目を凝らします。
果たして今目の前にいるものは先程のあの男なのか。
グレゴリーは、何となく嫌な予感がして唾を飲み込みました。
それは、幻想的な月の灯りの見せる、妄想なのでしょうか。
それとも…
蠢く黒いフードから覗いた腕は、真っ黒の毛で覆われていました。
グレゴリーはその瞬間、息をすることを忘れました。
目の前の闇から聞こえる呻き声は、徐々に唸り声とも取れるものに変わっていきます。
それは肉食獣が、獲物に向って掛ける初めての声のようでした。
グレゴリーは、声も出ません。
ハラリ、と真っ黒なフードが床に落ちました。男が立ち上がったのです。
記憶以上に小さなシルエットに思えました。
そして真っ黒なフードの下のその体は…真っ黒なままでした。
「…グルルゥ…」
苦しげな呻き声など、もうこの部屋の何処にも響いてはいませんでした。
真っ黒な毛に覆われたそれは尖った耳をヒクヒクと動かしながらグレゴリーに近づいて着ます。
深い緑色の瞳を捉えて離さないのは、禍々しくも美しい、二つの紅玉です。
狼でした。
探していた、あの狼に間違いないと、グレゴリーは何故か確信がありました。
しかし、つい先程までそれは、魔法使いの男であったことも確かでした。
グレゴリーの頭の中を、赤や黄色の瞬きが、チカチカと現れては消えていきます。
何の考えもまとまりません。
これをひどく混乱していると、言うのだろうか。グレゴリーはそんな言葉を、やっと脳裏に浮かべました。
掌が、ぐっしょりと汗で濡れていましたが、それに構ってなどいられませんでした。
その汗の正体が、恐怖なのか、期待なのか、興奮なのか、判断する気にもなれません。
壁に映る影が少しずつ小さくなる度に、グレゴリーの耳に届く獣の荒い息づかいは、だんだんと大きくなっていくのです。
ドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドクンドク
果たしてグレゴリーは、心臓の位置について考えます。それは、胸にあるのか。はたまた耳の中にあるのか…。
グレゴリーの目が、狼の血だまりのような瞳に映る自分自身を捉えました。
まるで金縛りにでもあったかのようにグレゴリーは指一本動かせませんでした。
いいえ、本当に金縛りだったのかも知れません。
狼の淀んだ色の牙が、月明かりに照らされ、何とも不気味に照り輝いています。
プツっと言う音が、したかも知れません。狼の牙が、グレゴリーの青白い喉元を、破る音です。
ムノクロームの古い風景画のような夜の世界の中で、狼の瞳と、牙を汚す血の色だけが、鮮明に紅かったのです。
グレゴリーは、痛みと言うよりも喜び、もしくはもっと違う何かにゆっくりと目を閉じました。
閉じる瞬間に見えた自分の胸元には、狼の口に入ることのできなかった哀れな血液たちが、気が遠くなるほどの速さで、流れ落ちていました。
そして、グレゴリーは、涙を流す間もなく、意識を失っていったのです。
ここから先は、グレゴリーの覚えていない話です。
狼だけが、狼の目を通して全てを見ていた理性だけが、いつまでも、いつまでも、その光景を覚えていました。
グレゴリーの白い肌は、油絵の具のような紅でどろどろに汚れていきました。
そこを貪る狼の口の周りも、同じ絵の具で汚くなっていくのです。
狼は、ただ目の前にある食べ物を貪り続けます。鉄の味と柔らかな肉の感触が、まるで麻薬のように狼の人間としての理性を溶かしていくのです。
狼は、美味しい美味しいと、血の一滴も残すものかと、生々しい傷口を、舌で丹念に舐めあげながら、心の中では泣いていました。
先程まで会話をしていた人間すら、餌に見える、自分に泣いていました。
グレゴリーは、大きな目を開けたまま、気を失っていました。その窪みからこぼれ落ちるような宝石は、どんよりと濁って何も移さない、偽物のエメラルドのようでした。
狼はそれを見て、どうしようもなく吐き気がしました。
あの反抗的に光る緑色が、何かを欲しがって泳ぐ瞳が、もう二度と見られないのかと思うと、目の前の極上の餌ですら、一瞬でごみ屑のように思えたからです。
狼は初めて、餌を食べることを途中で止めました。
グレゴリーの呼吸は、今にも夜風の中にかき消えてしまいそうな、弱々しいものになっていました。
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