二、お菓子の家
昔から、森には魔女が住んでいると言うのが、定番のお話です。ヘンゼルとグレーテルと言う童話でも、お菓子の家に住んでいたのは、魔女のお婆さんでした。
そして、目覚めたグレゴリーの目の前に覆い被さっていたのも、魔女のようなフードを目深に被った誰かでした。
グレゴリーは小さな悲鳴すらあげずにはっとしました。大きな瞳のエメラルドが零れ落ちそうな程、大きく見開いたまま、動けませんでした。
グレゴリーは、今の状況が唐突過ぎて、全く何が何だかわかりません。
どこでいつ自分が意識を失ったのかも知らないのです。グレゴリーにしてみれば、急に夢から覚めたようなものです。読んでいた本が、一ページ丸々飛んでいたような感覚と似ています。一度の瞬きで、世界が全部変わってしまったようでした。
しかし、グレゴリーの感覚では、一瞬の魔法のようなできごとだったかもしれませんが、実際には彼は半日以上気を失っていました。
文字通り彼の目の前に煙のように現れたフードの人物は、目を見開いて固まったままのグレゴリー頭を、徐に撫で回しました。
「痛いっ!」
ただ頭を撫でられただけにも関わらず、グレゴリーの神経を激痛と言う名の命令が駆け抜けました。フードの男が手を離し、慌ててグレゴリーがそこに触れると、驚いたことにそこにはぼこりと大きなたんこぶがありました。
「…貴方が殴ったんですか?」
グレゴリーは怖いもの知らずです。一向に状況を理解できないので、彼は取りあえず思いついたことを質問してみることにしました。
「…」
フードの人物は大きく首を横に振ります。何となく、呆れたようなため息をついているように、グレゴリーには見えました。
グレゴリーはむっとして、仕方なく自分の周りを見回してみました。
グレゴリーがいるのは、簡素な木のベットの上でした。その上に、かび臭い擦り切れた布を重ねて、寝かされていたようです。
そこは小さな四角い部屋でした。四方の壁は、今にも崩れそうなきつね色の煉瓦で固められています。小さな部屋の中には、小さな窓が一つありました。煉瓦を無理矢理くりぬいたような小さな窓でしたが、そこからは暖かな光が射しています。そこで初めて、グレゴリーは外がもう昼であることに気づきました。
「お前は、ちょっとした崖の下で眠っていたんだよ。まるで獣に襲ってくれと言わんばかりだったから、取りあえず私の家に連れてきたんだ」
フードの隙間から発せられた声は、谷間で反響する風のように、低い男のものでした。
どうやら魔女ではなかったようです。
男は壁際に設えてある机に近寄り、その上に置いてある水差しを持ってきました。
もしかしたら崖から落ちたのかも知れないな…グレゴリーはやっとその考えに行き着き、心の中で小さく舌打ちしました。
男が水差しをそのまま渡して来たので、グレゴリーはちょっと迷ってからそれを受取り、直接口づけて、渇いた喉を潤しました。予想以上に冷たかったその水は、たんこぶと相まって頭痛を引き起こしましたが、それ以上に、この世のものとは思えない美味しさでした。
「その水を飲んだら、すぐに出ていけ」
グレゴリーは、水差しから口を離そうとしていましたが、その言葉に動きを止めました。そうしてゆっくりと目線だけで相手に疑問を伝えます。
「森の奥に、お前のような普通の人間が入り込んではいけない。この森は夜になると、人すら食べる獣が現れる」
そっと水差しを相手へと押しつけ、グレゴリーは微笑みます。それは、願ったりと。
グレゴリーの何とも形容しがたい邪悪で美しい笑顔は、水差しの陰に隠れて、男には見えませんでした。
「それに、昨日は何故だか鴉が大量に死んだ。もしかしたら、何か新しい伝染病が、森に来たのかも知れない。お前は暗くなる前に、自分のいるべきところへお帰り」
突き放すような男の言いぐさも、自分が犯した罪の残骸も、今のグレゴリーには何ら気になりません。グレゴリーの脳内は、昨晩出会ったあの闇色の獣と、もう一度会えるかも知れないと言う喜びでいっぱいでした。
しかし、ここでこの男の言う通り、大人しく森を出てしまったら、その願いも叶いません。
「そうですか。ご忠告ありがとう。でも僕はまだ具合がすぐれないのです、どうかあと一晩、いえもう数時間、ここに置いてはくれませんか」
「それはできない。申し訳ないが、無理な相談だ。今すぐ出ないと、日が沈むまでに森を抜けられない。夜になる前に森から出ないと、次の朝を待たずに、お前は肉片になってしまう。…別に意地悪で言っているわけではないよ」
グレゴリーの考えていた答えと、実際に男の言った台詞は、全く逆のものでした。グレゴリーは、やや面食らいつつも、どうしてもあの獣に会いたい一心で、男に食い下がります。しかし、男も必要以上に頑なです。まるでもうこれ以上一秒でもグレゴリーとは一緒に居たくないと言わんばかりです。グレゴリーが、上目遣いで言ってみても、まるで効果はありません。涙ぐんでも見せても、それは同じことなのです。
グレゴリーは、誰もが一目で自分の虜になることを知っていましたから、それはそれは屈辱でした。それと同時に、自分の美貌に屈しない相手に、興味も沸きました。
今グレゴリーの心を占めているのは、森の中で孤独に闇に浮かんでいたあの獣です。あの何者にも屈しない鮮血の瞳が、欲しくて欲しくてたまりません。
グレゴリーは、ややするとほんの少しわがままでした。世界の全てが自分のものでないと嫌なのです。しかし、自分にひれ伏す程度のものは、欲しくないのです。だから、どんなにお気に入りの玩具でも、自分の魅力に負けてしまった玩具では、すぐに飽きて壊してしまうのです。
だから、グレゴリーは、狼を手に入れたら、今度はこのフードの男で遊んでみようと、ぼんやり思いつきました。
こんな矛盾でできたグレゴリーです。今まで自分以外の誰かを、真剣に愛したことなどありません。神様は本当に意地悪なものです。グレゴリーに天使の美貌を与える代わりに、尽きることない悪魔の欲望も持たせたのですから。
「…わかりました。そんなに言うのなら、私は今すぐ発ちたいと思います」
突然に潔く引き下がったグレゴリーに、フードの男は一瞬訝しげに口元を歪めました。
しかし、考える時間すらも惜しむように、すぐに扉の方へ向かってしまいます。
かび臭いベットから立ち上がったグレゴリーは、本当はそんなに体調が悪いわけでもありませんでしたが、わざとフラフラとおぼつかない足取りを演じました。立ち上がって二歩ほど進み、あっと短く声を上げて壁に手をつきます。フードの男はその声にグレゴリーを振り向きましたが、それだけで、駆け寄るでもなく前に向き直ると、さっさと出て行けと言わんばかりに扉を開きました。
そんな男の様子を不服に思いながらも、心の底で楽しみ、グレゴリーは促されるままに外へと出ました。
グレゴリーの寝かされていた小さな煉瓦の独房は、どうやら何か大きな建物の一部のようでした。外へ一歩踏み出してみると、周りには数千年前の城跡のような、崩れた煉瓦が重なっていました。実際に、昔は大きな城か何かだったのでしょう。今出てきた部屋のような、小さな建物が、崩れながらもなんとかその形状を残していました。大部分は、足下に折り重なりミルフィーユのように断層を作っています。一枚一枚違った輝きをするその煉瓦のきつね色は、遠くから見るとまるで焼き菓子のようにも見えたことでしょう。
お菓子の家の正体は、暖かな太陽の下、その傍に寄って見れば、なんとも無惨な廃墟でしかなかったのです。
グレゴリーも、まさか本当にヘンゼルが言うようなお菓子の家があるとも思っていませんでしたが、なんともあっけないその正体に、顔には出さずとも、ほんの少しだけがっかりしていました。
「ほら、あっちの方に向かって歩いていけ。迷ったら、死臭のする方に行けばいい。鴉の死体が、きっと森の出口まで続いているはずだから」
明るい日差しの元で見るフードの男は、まるで誰かの影のようでした。
グレーテルは、礼儀正しく頭を下げて、男の指した方角へ、えっこらえっこら足を引きずり、頭を押さえ、いかにも歩くのが辛そうだとばかりに向かって行きました。
グレーテルがお菓子の家のの残骸のあった、開けた土地を後にして、もうすっかりそれらが見えなくなるほど森の奥へ進むまで、フードの男は、一本の黒い木のように立ちつくし、グレゴリーの後ろ姿を見送りました。
グレゴリーからも、男からも、お互いの姿が確認できなくなった頃。グレゴリーは、病人の演技をするのを止めました。確かに頭には大きなたんこぶがありましたし、それは押すとズキズキ痛みましたが、それ以外のどこも、痛くもなんともありませんでした。もしどこか痛い場所があったとしても、今のグレゴリーには、夜まで森で待って、あの狼にもう一度会うことの方が重要だったのです。
グレゴリーは、くるりと踵を返して歩き出します。自分の足跡を、一歩一歩慎重に辿りながら。
森の中に入ってしまえば、右も左もわかりません。狼のためには多少の無茶はするつもりでしたが、さすがに土地勘のない森で当てもなくさまようほど、無鉄砲にはなれませんでした。
取りあえず、夜まで先ほどの廃墟のどこかへ隠れて待ち、日が暮れたら、これみよがしに歩き回ろう。あとは向こうが、無防備な人間の臭いにつられてやってきてくれるはずだ。
グレゴリーはそんな風に軽く全てを考えます。しかも、あの廃墟にはフードの男が住んでいるらしいのですから、何かあったら迷ってしまったとかなんだとか言って、何とか助けてもらえばいいのです。
グレゴリーは、あまりにも骨組みしかできていないお粗末な計画にすっかり満足すると、足音を殺します。気が付くと、目の前には、先ほど別れたばかりのお菓子の家がありました。
グレゴリーの鼻先をかすめる空気が、少し湿っているような気がしました。今夜は、雨が降るかも知れません。
足下には細心の注意を払いながら、先ほどの小さな小屋から離れた場所を探します。幸い此処は、崩れた煉瓦でできた自然の隠れ家。身を潜める場所には不自由しないことでしょう。
ほどなくして、グレゴリーは、折り重なった煉瓦の隙間に、地下へと続く階段を見つけました。所々風化して、段のなくなったそれを降りると、何と言うことでしょう、グレゴリーの眼前には予想以上に開けた地下空洞が現れたのです。
入口は、よおく見なければ見つからないほど狭かったのですが、下へ降りてしまえば、天上こそグレゴリーの身長に少し足したほどの高さでしたが、そこはどこまで続くか先の見えない程の広さがありました。
所々できている煉瓦の隙間から、細い光が中を仄かに明るくしています。しかし妖精の発するようなそんな頼りないものですから、勿論奥の奥の暗闇までは照らせませんでした。
この廃墟が城として使われていた頃は、きっと地下倉庫か何かに使われていたのでしょう。いえ、もしかしたら独房や拷問部屋か何かだったかも知れません。どちらにしろ、まるで洞窟のような薄暗いそこには、城であったころの痕跡は、何一つ残っていませんでした。
グレゴリーは、此処に身を潜めることに決めました。ここなら、フードの男が主に居住している先ほどの小屋から見て、廃墟の真逆に位置する上、風なども防げます。
煉瓦の入口からこそこそと空を見上げると、太陽はまだまだ、落ちる気配もありませんでした。
まだまだ時間はあります。今夜中に狼に会えなければ、この地下室とは長い付き合いにあるかも知れません。
グレゴリーは、ほんの少し、この地下を探検してみることに決めました。
BACK NEXT |