第一話 ヘンゼルとグレーテル
昔むかし。誰もいつだか覚えていないほど昔の出来事です。
黒い森の真っ白い大きなお屋敷に、二人の少年が住んでいました。一人はヘンゼル。そしてもう一人をグレゴリーと言いました。
グレゴリーは、月の灯りのようにキラキラと輝く金髪と、透明なエメラルドの瞳を持った、それはそれは美しい少年でした。成長しきっていない細い四肢が、まるで少女のようでしたし、他に並ぶ者のいないその玉のような美貌から、ヘンゼルとかけて、グレーテルと呼ばれておりました。
綺麗なお顔と相反して、気の強いグレゴリーの性格でしたから、勿論そんな誰だかわからない少女の名前を呼ばれることには納得していなかったようですが。
そんな美しいグレゴリーでしたから、勿論その姿を目にした人々は、一瞬にして心を奪われました。その瞳はまるで魔力でもあるかのように、相手の心臓を鷲掴みにして離さないのです。
さて、それは当然一緒に暮らしている、いとこのヘンゼルとて例外ではありません。
ヘンゼルは、父親譲りの赤毛と大きな背丈、そして母親譲りの彫りの深い顔立ちを持った、なかなかの二枚目で、グレゴリーの美貌には敵わないまでも、近隣では評判の美男子でした。
しかしながら困ったことに、あまりに長い間、一番近くでグレゴリーの魔性を受けていたせいでありましょうか、彼の心は病んでいたのです。これも一種の恋の病と言うのでしょうか、ヘンゼルはグレゴリーを溺愛しておりました。その溺愛ぶりときましたら、彼が両親や使用人をはじめ、自分以外の人間と口をきくたびに、嫉妬の炎にかられ、部屋中のクロスを爪で引き裂くほどでした。その度ごとに何度、ヘンゼルはグレゴリーを殺して、完璧に腐敗処理を施し、硝子の棺に寝かせて、自分だけのものにしてしまおうと思ったか知れません。
しかも勘のよいグレゴリーでしたから、そう言ったヘンゼルのどす黒い欲望を全部承知の上で、わざと他の者と遊んだりして楽しんでいるのです。あぁまるで魔女のような所業ではありませんか。ヘンゼルの内の悲鳴が、聞こえてくるようです。
そんな日々がまるで永遠のように続いたある晴れの日。
空は圧迫感すら感じるほど、雲一つない青でした。ヘンゼル少年十七歳、グレゴリー少年十四歳でありました。
ヘンゼルは屋敷で一番高い、真っ白な煉瓦で組み立てられた塔の最上階のベランダから、緑の深い森を見渡し、目を見張りました。
「グレーテル…!」
ヘンゼルは、部屋の中で分厚い本を読んでいるグレゴリーの名を急に呼びました。
グレゴリーは読み差しの本から不機嫌そうな顔を上げ、何?と短く答えます。
「…今夜逃げ出そう。この館にいたら僕たちは駄目になってしまう!」
何を急に言い出すのでしょう。グレゴリーはあからさまに呆れたような半眼で、森を見つめるヘンゼルを見ていましたが、どうやら相手にするのも面倒なのか、すぐにその視線を本へと戻しました。
「今夜…そう今夜だ。君の手を取って、僕は走り出す。月明かりだけが僕らを見ている。二人きりの世界へ、向かおう…」
先ほども書いたように、ヘンゼルには一種の病がありました。このときも、いつもの狂ったそれだろうと思い、グレゴリーはさして相手にもしませんでした。
むしろ、それが本気だとしても彼にはどうでも良かったのでしょう。脳味噌が退屈で溶けて、耳から流れ落ちてしまうより先に、何か起こるのなら、それが何だろうと構わなかったのです。
弓張り月が天上で輝いていました。グレゴリーの髪と同じ輝きでした。そして月の照らし出す紺色の闇の中を、二つの影は歩いていました。
館を出て、どれ程歩いたでしょうか。小一時間ばかり歩いたでしょうか。どちらにしろ出発当初から、二人の間に会話はありません。重たいような沈黙すら、森の夜風にさらわれて、どこかへ行ってしまうのでした。
血走ったヘンゼルの青い目だけが、暗い森をさまよっているようでした。
ほんの少し森を歩いただけにしては、不自然な程、ヘンゼルは荒い呼吸を繰り返していました。ハァハァとまるで飢えた獣のような息づかいばかりが、二人の踏み潰す虫たちと小枝の悲鳴を消しているのです。
ヘンゼルは、館を出るときにグレゴリーに一つの黒パンを渡してありました。
「もしかしたら長い道程になってしまうかも知れない。どうしても耐えられなくなったら、このパンを食べていいからね。この黒パンは、グレーテルの分だから」
グレゴリーはやはりグレーテルと言われたことが気に入らなかったらしく、ヘンゼルがくれた黒パンを、ぎゅっと握り潰しました。
グレゴリーのか細い腕を掴み、一心に前ばかり見ていたせいでしょう。ヘンゼルはグレゴリーが、森を歩く暇につけて、彼からもらった黒パンを、少しずつちぎっては、森の小鳥や動物にと、投げ捨てていることに気づきませんでした。
まるで道標のように、二人の来た道に点々と転がるそのパンの屑を、夜の鴉が啄む度に、一声も鳴かずその場に倒れるのです。冷たい鴉の道標の完成でした。
グレゴリーの掌から、黒パンがすっかりなくなる頃には、夜の森はすっかり静かになりました。
「…グレーテル。僕は実は、森の奥深くに、お菓子の家を見つけたんだ。今日の昼間、塔のベランダから微かに見えたんだ。あのきつね色の壁は、きっと焼き菓子に違いないよ」
グレゴリーは、突如話しかけてきたその内容に、思わずそっとため息しました。前からおかしいおかしいとは思っていましたが、どうやらヘンゼルは本当に頭がおかしくなってしまったようだからです。
グレゴリーはおとなしく付いてきたことをほんの少しだけ後悔しました。
しかし、あの館でこの狂人を玩具に、死んだように生き続けるのも、今夜この森の狼の血肉になるのも、あんまり変わらないことに気づいたので、後悔などと言う、煮ても焼いても食えないものをほんの少しでもするのは、すぐにやめにしました。
「おかしいな…そんなに遠いところではなかったはずだけど…あのお菓子の家はどこへいってしまったのだろう…僕の幻覚だったのだろうか」
自分の思っていたよりも、随分と歩いているのでしょう。ヘンゼルの声は不安げに震えていました。グレゴリーは、ヘンゼルのそういった心の弱いところが、昔からどうも嫌いで、見ているとイライラするのです。
しかも、ヘンゼルの幻覚ごときで、夜中の森を当てもなく歩き回されていたことに、だんだん腹が立って来てしまいました。
「おいヘンゼル。もしもお前の幻覚の為に僕がこの森で遭難でもしたら、そのときはお前を殺して喰ってやるからな」
「グレーテル。そんなことで許してくれるならおやすいご用だよ。僕は君の血肉となって君を生かすことができるなら、自分の命なんてこれっぽっちも構ったりしないんだからね」
脅しのために言った言葉に、むしろ恍惚とするヘンゼルに、グレゴリーは返す言葉も見つかりません。
この気持ち悪い生物を、いっそこの場で殺してしまおうかと思ったまさにその時です。背後でぐちょりと何かを踏み潰す音が聞こえました。ヘンゼルにはそれが何の音だかわかりませんでしたが、グレゴリーにはわかっていました。それは、死んだばかりの鴉を踏み潰す音でした。グレゴリーはゆっくりとその正体を見極めるべく、振り返ろうとしましたが、ヘンゼルがグレゴリーの手を掴んだまま蛙が跳ねるような勢いで駆けだしたので、それはかないませんでした。
それでも、一目散に走りながらやっと振り返ったその先には、鴉のどす黒い血で足を汚した、闇色の狼が立っていました。
今にも跳躍して、自分たちに追いついてきそうなその獣の瞳は、汚れた足下よりもなお鮮やかな血の色でした。
月光合間に垣間見た、一瞬のできごとでしたが、グレゴリーの心が捕らわれるには、充分な時間でした。
ヘンゼルはと言うと、勿論自分が手を引いているグレゴリーが、まさに今の瞬間に、狼を想っている等とは露とも思いません。
その前に、自分たちの背後に立っていたものが、果たして何であるかも彼は知らないのです。
ただ、背後に聞こえた不吉な音に、とにかくそれから離れるため、愛しい人の手を握り、走り出したのでありました。正体もわからぬ恐怖から必死で逃げるヘンゼルの形相は、人に見せられたものではありません。幸い、可愛いグレゴリーは、ヘンゼルの背中すら見る気がなかったので、彼の二枚目としてのプライドは守られました。
グレゴリーは、まさか、いつもはとろいヘンゼルがこんなに速く走れたなんて、とほんの少しだけ驚きました。
しかし、しばらく走り続けるうちに、自分がどうしてこんな奴と一緒に、へとへとになりながら走っているのだろうかと言う怒りが生まれはじめました。グレゴリーは、長年一緒に育ってきたこのヘンゼルを今此処で見捨てて、先ほどの獣の処へ戻りたい衝動に駆られました。
「えっ?あっ!グレーテル!」
一度その気持ちが芽生えてしまう、後はもうどうにも止まりません。今までヘンゼルのなすがままだったグレゴリーは、急に腕に力を込め、ヘンゼルの手を振り払いました。
まさか今この場面でグレゴリーがそんな態度を取るなんて。まったく想像もしていなかったヘンゼルでしたから、その咄嗟の行動に、思わず反応が遅れてしまいました。
日頃ヘンゼルのことをとろいとろいと怒っているグレゴリーです。その動きは俊敏そのもの。ヘンゼルが状況を理解するよりはやく、来た道を闇の中へ転がりはじめます。
どうやら今まで気づかなかっただけで、道はほんの少し上り坂になっていたのでしょう。真っ黒い狼の元へと走るグレゴリーの足は、想像以上に軽やかなのです。まるで何かの力に吸い寄せられるかのように真っ暗な森を駆けるその姿は、美しい妖精のようでさえありました。
それに反してやっと逃げ出したグレゴリーを追いかけはじめたヘンゼルは、正体不明の恐怖の為でしょうか、どうも先ほどまでの素早さがありません。むしろその足取りは泥の中で無理に走り回るように、粘ついた重たげなものでありました。
しかも真っ暗な森の中です。先ほどまでグレゴリーの金髪を煌めかせていた弓張り月は、神様の悪戯でしょうか、今はすっかり雲に隠れて見えません。どんなにヘンゼルが闇の中に目を凝らしても、グレゴリーの姿はおぼろげにも見えてこないのでした。
「グレーテル!グレーテル!僕のグレーテル!あぁ君はどうしたっていうのさ!誰かに魔法でもかけられてしまったのかい…」
深い深い森の中に木霊するのは、悲劇に酔ったヘンゼルの無様な叫びだけでした。
本当に、これは森の魔法なのでしょうか。そのときヘンゼルとグレゴリーは、なんと全く違う方角へ向かって走っていました。狼の元へ逃げ出したグレゴリーを、邪魔する者はありませんでした。
しかしながら、優しいばかりではないのが運命と言うもの。グレゴリーは下り坂の勢いに任せて走るばかり、真っ暗な足下に広がる、大きな段差に気づかなかったのです。
グレゴリーは声も上げる間もなく、その段差を踏み外し、小さな崖に身を投げてしまいました。内蔵だけを宙に置いてきてしまったようなその感覚と、頭を襲った強かな衝撃に、グレゴリーは急速に眠りに落ちるように、意識を手放してしまいました。
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