僕の、初恋を覚えている。
 怖くて、痛くて、悪夢のような、記憶。
 それでも思い出すたびに、胸の奥が小さく疼くのを止められない。
 どんなに強く祈っても、二度と会えはしない、愛しい悪魔


 
   
子どもの時間




 祭りの村はひどく賑やかで、誰もが他人を気にしない。
 前後不覚に酔いつぶれ、独りよがりにはしゃぐ大人たちの喧騒から、小さなルーイはこっそりと抜け出してきた。
 賑やか過ぎるほど明るい村を少しはずれると、丘の上の草原は、半月の薄明かりに照らされて、ひっそりと静まり返っている。
 今にも妖精たちが輪になって踊りだしてしまいそうな、幻想的な夜景だった。
 ルーイはその聡明そうな碧の瞳を零れんばかりに見開いて、微かに風の吹く丘の上で息を整えていた。
 母親の目に止まらぬよう、静かにここまで走ってきたのだ。その胸には、悪戯を成し遂げたあとの罪悪感のような甘い疼きが芽生えていた。
 いつも子どもの動向に目を光らせている大人たちが、年に一度隙を作る日。こんな日でなければ、真夜中にこの草原にやってくることなどできなかっただろう。

 村はずれの丘を、深夜過ぎてから登ってはいけない。もしも子どもが一人で行ってしまったなら、ひどく恐ろしい悪魔が現れるだろう。

 ルーイは散々大人たちから言い聞かせられてきた教訓を胸の内で反芻して、意志を固めるように拳を握った。
 その時、ルーイの目の前を、小さな光が横切った。
 蛍だ!
 ルーイはそう思うととっさに夜の空間へ両手を伸ばした。


 
 ルーイの両親と言うのが、実はこの村一番の過保護者で、特に母親ときたら、ちょっとでも日が暮れるとルーイを決して家から出さない程だった。
 ルーイはとてもいい子だったし、母親の悲しむ顔を見たくはなかったので、普段はその言いつけを律儀に守り、家族3人楽しく暮らし続けてきた。  夜の暗さを知らないルーイには、蛍の光の美しさを知る術も無かったのである。
 しかし彼は別に諦めたわけではなく、ただじっと、この祭りの夜を待ち続けていたのだった。
 前に村の青年たちが噂していた、この丘が蛍の名所だと。
 村はずれの草原ほど、この世のものとは思えぬ美しい景色はないのだと。

 素早く手を伸ばしたその中に、偶然にも小さな瞬きが閉じこもった。
 ルーイの心臓が俄に跳ね上がる。
 果たして今自分の見つけたものが蛍なのかどうかもわからずに、ただそっと、両手で作った空間の中を覗いた。
 「うわぁ…」
 思わず感嘆の声を上げたその目線の先には、小さな掌を弱弱しくも必死に照らす小さな虫の姿があった。
 ルーイは恐る恐る上に被せていた手を退ける。
 すると、どういったことだろうか、一瞬のうちに微かだった蛍の光が、まるで月でも落ちてきたかのような強烈なものに変わったのだ。
 ルーイは眩しさに目を瞑り、その場にしゃがみ込んでしまった。



 「おっと、捕まってしまったね」



 その目も眩む光の中から、まるでわざとらしい低音が聞こえた。ひどく甘くていい声だ。
 ルーイは眉間に皴を寄せ、体を強張らせたまま、ゆっくりと恐る恐る目を開けた。
 「おや、よかった。きみは随分可愛い顔をしているじゃないか」
 ぼんやりと見えてくるその世界は、さきほどとなんら変わらない夢のような草原ではあったけれど、ただ一つ異なっていたのは、そこに見知らぬ青年が一人たっていることだった。
 しかもその青年ときたら、まるで妖精の国の王子が戯れに人間界に姿を現したのではないかと疑うほどの美しさだ。黄金の糸車から紡ぎ取ったような髪は背中の中ごろまで伸ばされ、月の光で煌いている。ぼうっと暗闇に浮かぶのは、蝋のように白い肌、そしてルーイが今まで見たことも無いような、ねっとりとした感触すら伝わってきそうな深紅の双眸。
 ルーイはこの世のものとは到底思えないそんな目の前の人物から、目が離せなくなっていた。
 「そんなに目を見開いていては、落ちてしまうんじゃないかと心配になるよ」
 煙のように現れた男は、衝撃に尻餅をついたルーイに歩み寄り、静かにその目線へと高さをあわせようと自身もしゃがみ込んだ。
 「柔らかな鳶色の髪、大きな碧の瞳。子ども特有の滑らかな肌。顔立ちも整っているし…あとはいい声で鳴いてくれれば完璧だな」
 男は値踏みするようにルーイの頬を撫で回すと、最後に獰猛な笑みえを作った。唇をなぞられたときの指先が、あまりにも冷たかったので、ルーイは今だ声すらあげられずにいる。
 「残念だったね、しかしお前が私を捕まえてしまったから悪いんだ」
 にやにやと笑うその紅い唇の隙間からは、肉食獣のような鋭利な牙が見え隠れしていた。
 ルーイはこの状況が全く把握できていなかったし、思考は相変わらず止まったままだったけれど、本能的に何かとてつもない恐怖であることを感じていた。
 「こんな夜更けに一人でこんなところに来ては、いけないと大人たちに習わなかったのかい?」
 青年の美しくしかし紛れもない男のものとして太く節くれた指が、少年の上着のボタンを一つはずした。
 「…えっ?」
 「うん。声も合格」
 その奇妙な行動に、ルーイは思わず疑問の声をあげえしまった。青年は微かに漏れたその声すら聞き逃さなかったようで、満足げにそう呟くと、残るボタンも素早くはずしきってしまった。
 「私はね、容姿の優れた子どもしか相手にしないのだよ。大人の血なんて、不味くて飲めたものじゃない」
 そう言うが早いか、男は露になったルーイの白い喉元に顔を寄せると、その凶暴な犬歯でもってガブリと噛み付いた。
 「っ痛!!!うぁぁあっ!!!!」
 ルーイは一瞬何をされたかわからず、大きく目を見開いたが、己の首筋に走った激痛に、悲鳴を上げずにはいられなかった。あまりのことに意識を失いそうになりながら、しかしドクドクと言う心臓の音の大きさにそれもできずにいる。痛みとともに自身の血が吸われていることに気付いたとき、ルーイの脳裏には昔話で父にされた『吸血鬼』と言う物語が浮かんでいた。
 「ぅぁ…あ…いたい…よぉっ!!」
 上質のエメラルドから大きな涙を次から次に滴らせ、ルーイは何かに助けを求めるように、力なく指で宙を掻く。しかしその手を取るものはなく、ただ首筋にでは甘いような暖かな吐息が感じられた。
 ルーイはその所在なげな指先を、無意識に青年の煌く金髪へと絡ませていた。青年はそんんあルーイの様子を知ってか知らずか、その牙と長い舌とを使い、器用に溢れる血を啜っていた。
 しかし痛みで熱を帯びていた傷口は、次第に不思議な疼きを孕んでくる。それは、ルーイが今まで体感したことのない類のものだった。
 「…ん?…ぁあ…」
 口から零れるのは、心なしか先ほどの苦痛の悲鳴じみたものからどこか艶のある、くすぐったさを堪えるようなものへと変わっていた。
 そんな声の変化を察知したからか、美しい男はゆっくりとその顔を首筋から離した。あんなにも血を流していたはずなのに、不思議なことにそこの傷は、驚くほど小さな穴が二つ並んでいるだけだった。
 「…大人は汚い。毎年この祭りの夜に、大人たちがきみらに隠れて何をしているか、私が教えてあげようね」
 「…?」
 ルーイは荒ぐ息を抑えることも出来ず、ただ涙のたまった瞳で月光のなかぼんやりと見える男に目をやる。その瞳の中には、優しさのような残虐性が、チラチラと踊っていた。



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