雲雀は目を覚ますとまずその白い腕を伸ばした。覚醒しきらない頭で適当にベットの下を探ると、昨夜(たぶん昨夜)脱ぎ捨てた衣服の中に小さな自身の腕時計を見つけそれを拾い上げる。 別段高級なものではなかったが、愛用している革のバンドのクラシカルな腕時計は、黄ばんだ文字盤に三時を示していた。 カーテンのかかっていない窓から入るのは雲越しの僅かな光のみ。夜ではないのだから今は昼間の三時だろう。 よく目を凝らすと窓硝子を無数の雨粒が叩いている。道理で眠りすぎてしまうはずだった。 「ヒバリ?もう起きんの?」 隣りから甘えるような男の声がする。 「今何時だと思ってるの?もう三時だよ。おやつの時間だ」 別に本気でおやつを欲しているのではなかったが、それ以外に正確に時間を伝える言葉が思い浮かばなかった。 しかし、雲雀の隣りで布団に包まっていた山本は、含みのある笑を零すと腕時計を掴んでいた白く細い手首を掴む。 「かーわいい」 山本はそのまま雲雀を抱き寄せると、その自分よりも小さな体を暖かな腕の中にすっぽりと閉じ込めた。 「放して。お腹すいた」 「かわいいなぁ」 「お腹すいたってば」 腕時計を握っていた雲雀の指を丁寧に開き、山本はそれを奪うとそっとまた床へ落とした。その些細な質量では、大きな音も起こせない。 「じゃあ雲雀は何が食いたいの?」 山本の声は優しく、甘ったるい響きで雲雀の耳に届く。無骨な指が黒絹のような髪をすく度、雲雀はほんの少しだけ目を細めた。 「別に…何でもいい」 「じゃあもっとベットにいよう」 「何でもいいけどお腹はすいたんだってば」 腕の力を強めた山本に、雲雀は少し苦しげに身を捩る。しかし身を捩れば捩るほど、その力は強くなっていく気がした。 「うちには特に食料のストックねぇからなぁ…」 もがく雲雀を楽しげに抱きしめながら、山本はこともなげにそう言った。 「じゃあどこか外に食べに行こう」 雲雀は少し驚きながらも、別段気分を害した風でもなく提案をする。 「雨なのに?」 「…だから何さ?」 「普通雨の日は閉じこもるもんだろう?」 なんの悪気もなく言ってのける相手に、出る溜息もない。 雲雀は仕方ないと目を閉じると、それからもう何も言う気がしなくなったのか、大人しく山本の腕の中へ収まった。 会話の途切れた部屋の中には、雨が世界を打つ鈍い音と、殺しきれない二人の呼吸だけが残っていた。 「どうしてもお腹すいた?」 山本が、穏やかな口調でそれを破る。 「…」 「どうしてもお腹すいた?」 「言っておくけど、きみとこのまま餓死とか、そういうことには絶対ならないからね」 雲雀は山本の思考回路を読んで先にまわったつもりだったが、その言葉を聞いた山本本人は、盛大に笑って雲雀の頭を撫でた。 「そんなのわかってるよ」 山本は抱きしめていた雲雀から体を離すと、一糸纏わぬその姿を愛しげに見詰め、いつの間にか冷えた指先で、そっとその体をなぞっていく。 指のあまりの冷たさに、雲雀は心臓の止まる思いだったが、口には出さずに男の好きなようにさせていた。 「ヒバリがお腹をすかせて死ぬなんて、俺も嫌だから」 山本の掌が、滑るように雲雀の体を這い、それは腹部へと到達した。 胃の辺りを優しく撫で回すと、まるで妊婦にするかのような仕草でその平らな腹に頬を押し当てた。 「ちょっと…くすぐったい…」 「もう本当にお腹がすいて仕方なくなったら、遠慮せずに俺のこと食っちゃっていいから」 愛しむように雲雀の胃に、肌の上から口付けをおとした。 雲雀はひとつも表情を変えず、その山本の様子だけを、静に見下ろしていた。 「イタリアにはたくさんの食料があるし、僕にはお金があるから、そんなことにはならないよ」 山本がおかしそうに笑った。 「でもこのまま雨が降り続けたら、俺たちはこの部屋から一歩も出られないから」 雲雀は無意識に窓を見る。硝子には次から次へと新しい涙の跡が生まれていた。 広くもないこの部屋の入り口のドアには、キーチェーンだけがかかっている。いつも無用心だと思っていた。 「一歩も出られないの?」 「出られないよ」 山本の声はどこまでも優しかった。雲雀は思わずその黒い短髪に指を絡める。 「そう言えば、ずっと思っていたんだけど、この部屋には時計もカレンダーもないよね」 どうして?と言う言葉が続きそうで続かない。 山本は何を言うでもなくただははっと空笑を漏らした。 もう一度時間を確認しようかと、先程落とされた自身の腕時計に手を伸ばしかける。けれど雨のせいだろうか、ほんの少しだけ寒さを感じた雲雀は、伸ばした腕で足元の布団を引っ張り上げた。 どうせまだ、雨は止みそうにもないのだからと。 |