クッキング






「雲雀」


聞きなれた男の声が僕の名を呼んだ。この頃ではもうその声を聞くだけで、僕の体は一瞬強張ってしまう。
返事もせずに振り返ると、そこにはやはり山本武が立っていた。

スーツからネクタイ、ワイシャツに至るまで黒で統一された彼の姿は、絵画で見る悪魔よりも尚悪魔らしいと思う。

彼はゆっくりと無言で両手を開く。そうすれば何か大きな物が飛び込んでくるとでも思っているのだろうか。

「雲雀」

もう一度、今度は先ほどよりも低い声で慎重に名を呼ばれた。指先から段々と、体が冷えていくのがわかる。この何もない白い部屋の中で、僕はこれからどうなるのだろう。

「俺のこと好きだろう」

「馬鹿言わないでよ」

確かに紡いだはずの言葉は、反響のいい部屋の中で、何重にも震え続ける。山本が眉間に皴を寄せ、笑った。それは昔と変わらない、悪戯した子どもをしかるような表情だった。

「雲雀、おいで。アンタ本当は俺にキスしたいんだよな」

僕はその瞬間に呼吸の方法を忘れてしまう。山本の黒檀のような瞳が、一層に濁り、そこに自分自身さえみつけられなくなってしまうからだ。

抗えばいいのに僕はすっかりそんな彼の瞳に恐れをなしてしまっている。いつからこんなにも臆病になったのか。僕らの関係は、いつどこで狂ったのだろうか。

「…そう、いいこだ」

必死の思いで一歩一歩彼に近づいていくと、また口元だけの優しさで彼はそう呟く。きっと始めから少しずつ、狂っていたのだろう。何度やり直したところで、それなら変われるはずもない。

僕と彼との距離があと一歩になったところで、大きな手が僕の腕を強く掴んだ。その力強さに重心を失った体は、人形のように投げ出され山本の中に納まった。山本はやはり不適に笑いながら、受身を取って後ろへ倒れる。

「雲雀、アンタはやっぱり可愛いね」

自然と山本の上に跨る様な形になってしまった僕を下から見上げる彼に、いつかのホームランを打った日の姿は見えなかった。誰しもが、いつまで少年ではいられないことに、柄にもなく胸が軋んだ。

無骨な長い指で唇をなぞられ、そっと頬を包まれる。その掌は、不自然なほどに熱を孕んでいる。

「噛み殺すよ」

それ以外何を口にしたらいいのかわからずに、僕は短くそう言って、冷たそうに乾いた彼の唇を奪おうと必死に顔を近づけた。

「本当にそればっかなのな。でもさ、本当は俺に噛み殺されたいのはアンタだろ」

そうさわかってる。

「…っう」

口付ける手前で僕は思わず呻いてしまった。俄に目の前の白い唇が面白いほど赤く染まっていく。食いしばる僕の歯列の隙間から、流れ落ちた血の色だ。

「なぁ、背中を小太刀で刺されるのって気持ちいい?」

気持ちいいかと訊かれれば、僕は弱弱しく何度も首を縦に振る。この痛みこそが快感なのだと、教えたのは他の誰でもなくきみじゃないか。

僕の背に食い込む刃を、楽しげに動かす彼の表情は、今まで見たどんなものよりも楽しそうで、何だか刺されているこっちも嬉しくなってくる。

背中から、内臓に空気が流れ込んでくるのがわかる。何度も呼吸が止まりかけ、にも拘らず意識だけははっきりしていた。

僕はただの狂人のように、震える指で彼の髪をかきあげ、醜くそのほくそ笑む唇を奪う。




鉄の味のするキスが何より好きだった。



だから僕は自然と、彼の傍から離れなかったのかもしれない。



「やっぱりな、雲雀は死ぬ間際がきっと、一番綺麗だと思ったんだ」




貪るようにその唇を。


僕もきみがそんなに楽しそうにしてくれるなら、心から嬉しいよ。












ねぇ山本、きみは何を作りたかった?


きっと僕ら二人が材料なら、何度作り直しても、最後はこうやって幕を引くんだろうね。














THE END